何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

ご飯がなければおはぎを食べればいいのに

 

いつのまにか世間では米不足になっていた。

ニュースを見て「都会のことでしょ? 田舎には関係ないよ」と思っていたら、行きつけのスーパーでも値上げと数量制限がされていた。自営で農業をしていれば別かもしれないが、もうこういうことに都会も田舎もないのだな。

ただでさえ食品の値段が上がり続けているところに、主食の米までも値上げとは。「米よ、おまえもか……」と嘆きたくなる。

もっとも(幸か不幸か)私は一人暮らしなので、家族の多い世帯に比べればそこまで深刻な影響はない。それに私は「米は○○に限る」といったこだわりもない。いわゆる「貧乏舌」なので、多少質が落ちる食べ物でもそれなりに美味しいと感じられる。あまり自慢にはならないが。

まあ、高くなったとはいっても売り場から完全に消えてしまったわけではないし、今年の新米が出回るようになれば徐々に解消されるらしいから、もう2、3ヶ月ぐらいの辛抱だ。1993年の米騒動のようなことにはならないだろう。……といっても、若い人は知らないかもしれない。

 

 

1993年(平成5年)は夏に気温が上がらず記録的な冷夏になったため、稲が十分に育たず、全国的に不作になった。

需要に供給が追いつかず、政府が備蓄米を放出しても焼け石に水。小売店の店頭から米が消える事態にまでなってしまった。中国やアメリカから緊急輸入しても十分な量が確保できず、せっかくタイから輸入した米は日本食に合わないとか言われて不評。日本国中てんやわんやの大騒動になったのである。この状況が翌1994年の半ばまで続いた。

1993年米騒動 - Wikipedia

人々が米を求めて行列を作ったり、根も葉もない流言飛語が飛び交ったり、「ヤミ米」なんてものまで出てきたりと、ずいぶん世の中が荒れていたような気がする。(新型コロナの初期の頃のマスク騒動に似ているかもしれない)

しかし私個人としてはぜんぜんあわてていなかった。当時はアパートで一人暮らしだったが、実家がまだ現役の農家だったので、私が食べる分ぐらいは融通してもらえたからだ。なので、その悲喜劇をちょっと醒めた目で見ていたように思う。(偉そうに……)

でもいまは農家を(実質的に)廃業しているので、同じことが起きれば余裕ぶってはいられない。

 

どれだけ時代が変わっても、食べることが生きることの基(もとい)であることに変わりはない。

しかしその基盤は、ちょっとした気候変動や外国で起きた戦争なんかで割と簡単に揺らいでしまう。それを個人でどうこうすることはできない。

個人にできることがあるとすれば、食べ物を無駄にしないこと、日々の食べ物があることの「ありがたみ」を忘れないことぐらいではないかと思う。

なんだか抽象的で、柄にもなく道徳的(?)なことを言うようだが、こういうのはやっぱり大事なんじゃないかと。