何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

真剣に、だが深刻にはなるな

 

40年ほど前に『ジャンプ』で『テニスボーイ』(寺島優小谷憲一)という漫画が連載されていた。

私は特にテニスに興味があったわけではないが、その漫画がすごく好きだった。いわゆるスポ根とは違っておしゃれな感じで(特に女性キャラが)、それでいてとても熱い漫画だった。

私にとって『ジャンプ』のテニス漫画といえば、『テニスの王子様』ではなくいまでも『テニスボーイ』だ。

 

その『テニスボーイ』の中で、当時の男子のトッププレイヤーだったビヨン・ボルグの言葉が引用されていた。

「真剣なプレー、だが深刻にはなるな」

いま手元に本がないので正確ではないかもしれないが、こういう言葉だったと思う。当時の私はまだ子どもだったが、40年経ったいまでも覚えているということは、子どもなりに「これは大切な言葉だ」と思ったのだろう。(ちなみに、ネットで調べてみると、この言葉は一般的には「深刻になるな、真剣になれ」と訳されているようだ)

 

先日ヤフオクを見ていたら、そのビヨン・ボルグの自伝『ビヨン・ボルグ  我がテニス』(後藤新弥訳、日刊スポーツ出版社、1980)を見つけたので思わず買ってしまった。

 

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ボルグは1956年、スウェーデンのソーデタルエという所に生まれる。9歳の時からテニスを始め、……中略して、1980年にはまぎれもなく世界No. 1プレイヤーだった。

 

やはり当時のトッププレイヤーだったマッケンローは、強烈なサーブの後に素早くネットに詰めてボレーを決める攻撃的なプレーをするが、ボルグは対照的にベースラインから長いボールを打ち合う、いわば「我慢のテニス」といったスタイルだ。

正確に、粘り強く打ち合い、相手がミスをするのを待つ。あるいは、相手が我慢できずにネットに出て来たところを、パッシングショットで相手の脇を抜く。

実際にボルグの試合を見たことはないが、たぶん「地味」な感じがするのではないか。よくいえば「玄人好み」というか。

 

ボルグとマッケンローはプレースタイル以外でも好対照だ。

コート上で感情を露わにし、いかにも喜怒哀楽の激しいマッケンローに対して、ボルグは常に冷静沈着、無表情、感情を表に出さない。疑わしいジャッジに対しても抗議しない。それでついたあだ名が「アイスマン」あるいは「氷のボルグ」。

ボルグはまたこんなことも言っている。

私は敗戦をあまり苦にすることがない。試合が終われば、すべては終わりなのだ。同様に勝った時も、それほどは余韻を楽しまない。(p.12)

一言で言えばメンタルが強いということだが、これは冒頭に挙げた「真剣になっても深刻にはならない」にも通じている。

 

精神力の強さ、我慢強さということでは、「訳者あとがき」に書かれている、ボルグが直接訳者に語ったという言葉も印象的だ。ボルグはテニスにおいて(自分自身を含めた)人を育てることを、花に喩えて次のように語る。

「どんな花だって、その日がくればものの見事に、美しい姿を見せてくれるのさ。その日まで耐える苦労が多いほど、花も美しいし、見る側の喜びも大きくなる。しかし、ツボミを強引にこじあけても花は咲かないし、肥料を与えすぎれば枯れてしまう。咲くのがおそいと叱ってムチでたたけばーー花は死ぬしかないんだよ。僕らに出来ることは、水と、空気と、太陽を与えて、つまり自然のままにして暖かく見守ることなのだ」(p.291)

 

「スミレの種にバラは咲かない。スミレにバラになれというのは、言う方がおかしい。しかし、スミレはスミレでもよいではないか。スミレの中で、一番美しい花を、一番長い間咲かせることは、どれほど尊いことだろう。無理にバラに似せようとするよりも」(p.292)

 

もちろんこれはテニス以外にも通じることだ。

 

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