何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

日記と新しいノート

 

日記を再開するために、新しいノートを買ってきた。

日記といっても毎日書くわけではない。もともと購入した本を記録するために書き始めたもので、それに日々の出来事や気分などを書き加える感じのものだ。

とくに書くことがない日は書かないし、1日が2、3行の日もあれば、1ページ以上書くこともある。

そういう日記を、数ヶ月のサボりや中断を何度もはさみながら、20年ぐらい続けていた。

それが2年前の父の死から途切れてしまった。出来事にしても、気持ちにしても、あまりにも記録しておくべきことが多すぎて、どう書いても書ききれるものではないと思うと、気持ちが萎えてしまったのだ。(もちろん葬儀をはじめ煩雑な手続きが多くて、それどころではなかったということもある)

しかし、不完全でも断片的でも、その時のことを書き残しておけばよかったなと、いまになって思う。書いたからどうした、ということもないけれど、そう思う。

 

昔買った本のことを調べるために日記を読み返すことがまれにあるけれど、そういうときはついつい読み耽ってしまう。

書かれているのはたしかに自分のことなのだが、他人事のようでもある。「そんなことでイライラするなよ」とか、「ゴタクはいいからとりあえず働け」とか、昔の自分にツッコミを入れるのはなかなか楽しい。

ちなみに日記に使っているのは普通のノートなのだが、「無線綴じ」や「糸綴じ」のものではなく、ずっと「ダブルリング」のものを使っている。なんでそこにこだわりを持っているのか、もはや自分でも覚えていないけれど。

 

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せっかくブログを書いているのだから、(公開できる部分は)そこに書けばいいじゃないかと思わなくもない。

実際にそういうふうにブログを使っている人もたくさんいるし、読むほうも、普通の人の普通の日常を読むのが好きだという人もいる。

しかし私の中では、日記は紙のノートに書くものだという固定観念が根強い、というか、単純にそっちの方が好きなのだ。

冊数を重ねて、ノートが積み上がっていくその物理的な存在感が、自分がたしかに存在してきたことの証のような気がするからかもしれない。錯覚だけど。

 

それに、日記に限ったことではないけれど、新しいノートを使い始めるときのあの気分の良さはデジタルでは味わえない。

どう言えばいいのか、ノートが新しくなったことで、まるで自分自身も「新しい自分」に更新されたような気がする。これも錯覚だけど。

なにも書かれていない真っ白なノートに、ペンでインクを刻みつけていくときの筆圧の快感。

しかし、残念ながら、そうした気分の良さも長くは続かない。

その真っ白だった紙面を、見慣れた悪筆が埋めていくので。