何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

店内放送

 

先日、ほとんど利用したことのないスーパーで買い物をした。

普通に商品を見ていたのだが、なにかちょっとした違和感のようなものを覚えて、あれ、なんだろう? と考えたところ、店の中が静かなのに気づいた。

つまり音楽や店内放送の類がまったくなかったのだ。

聞こえるのは客がカートを押している音や店員が作業をしている音、セルフレジの「お釣りをお取りください」という音声だけで、ほとんど無音といってもいい。

違和感の理由はわかったけれど、同時に、自分にとって店内の音楽や放送がいかに「あたりまえ」のもの、「自然」なものになっていたかにも気づいた。

 

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かなり前に中島義道『うるさい日本の私』を読んだのだが、その中で著者は、私たちの日常がいかに「過剰な音」で満たされているか、いかにそれに無感覚になっているかを指摘して、激しく批判していた。

いろいろな店の店内に流れる音楽や放送などはその最たるものだろう。本来静かな場所であるべき書店でさえも、クラシックやジャズなどを流しているところが多い。

どこに行ってもたいていそういうものだし、毎日聞いているうちにそれがあたりまえで、普通で自然なことになっている。要するに感覚が麻痺してしまっているわけだ。

私もそうなので、それをとくに気にすることもないし、冒頭にも書いたように、逆にない方が気になってしまう。

普段から過剰な音の中にいると、静けさに耐えられなくなるのかもしれない。

過剰さに慣れてしまうのも考えものだ。

 

ついでに、これはいつも行っている(放送がある)スーパーでの(どうでもいい)話。 

買い物をしているとこんな放送が聞こえてきた。

「○○(商品名)を使ってハレンチ料理をお楽しみください」

ハレンチ料理⁉︎   ハレンチ料理ってなんだ⁉︎

私の頭の中には伝説の「女体盛り」や90年代の「ノーパンしゃぶしゃぶ」などといったハレンチ極まりないものが浮かんできたのだが……。

放送がリピートされていたのでよく聞いてみると……ハレンチ料理ではなくアレンジ料理ね……。

うん、まあ、そりゃそうか。

でも、ハレンチ料理、ちょっと気になる。