もう何度も書いているけれど、私は大学進学にともなって実家を離れた。
帰省するのはだいたい盆と正月の2回だけで、それも3、4日実家に滞在すると、もういいだろうと言わんばかりにさっさとアパートに帰っていった。実家にいてもやることはなかったし、なんといっても気詰まりだったからだ。
大学がある地方都市は隣県で、距離はよくわからないが、帰省に要する時間はだいたい4時間ぐらい(電車は「普通」を利用し、乗り継ぎの時間を考慮しない場合)だった。それほど遠いというわけではない。
ただ、物理的には遠くなくても、心理的には遠かった。
その方が良かったのかもしれない。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
国語の教科書でもよく見る、室生犀星の「小景異情」の一節だ。
私にとってこの言葉は、 詩を超えて、ほとんど真理とさえ思われる。
いま、私は「ふるさと」に戻ってきて、そこで生活している。
客観的に見れば、ここでの生活はそう悪いものではないのかもしれない。実際にアパートの家賃も払えない「異土の乞食」のような生活をしていたこともあるので、それに比べればいまの生活は(貧乏なりに)安定している。
しかし、そんな「ふるさと」を息苦しく感じることがあるのはなぜなのか。
やはり「ふるさと」は遠くにあってもらいたかった。
遠くにあれば甘くて苦い〈郷愁〉に浸ることもできただろう。
〈郷愁〉とは「ここ」ではない「どこか」、「いま」ではない「いつか」へのあこがれなのだ。「ふるさと」が「いま・ここ」になってしまったら、もう〈郷愁〉の対象ではなくなってしまう。
だから「ふるさと」は遠くになければならないし、実際に帰るべきところではないのだ。
それは「帰りたい」という願望の中にだけ存在すべき場所なのだ。
今週のお題「遠くへ行きたい」