何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

遠きにありて

 

もう何度も書いているけれど、私は大学進学にともなって実家を離れた。

帰省するのはだいたい盆と正月の2回だけで、それも3、4日実家に滞在すると、もういいだろうと言わんばかりにさっさとアパートに帰っていった。実家にいてもやることはなかったし、なんといっても気詰まりだったからだ。

大学がある地方都市は隣県で、距離はよくわからないが、帰省に要する時間はだいたい4時間ぐらい(電車は「普通」を利用し、乗り継ぎの時間を考慮しない場合)だった。それほど遠いというわけではない。

ただ、物理的には遠くなくても、心理的には遠かった。

その方が良かったのかもしれない。

 

  ふるさとは遠きにありて思ふもの

  そして悲しくうたふもの

  よしや

  うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても

  帰るところにあるまじや

 

国語の教科書でもよく見る、室生犀星「小景異情」の一節だ。

私にとってこの言葉は、 詩を超えて、ほとんど真理とさえ思われる。

 

f:id:paperwalker:20200523010722j:plain

 

いま、私は「ふるさと」に戻ってきて、そこで生活している。

客観的に見れば、ここでの生活はそう悪いものではないのかもしれない。実際にアパートの家賃も払えない「異土の乞食」のような生活をしていたこともあるので、それに比べればいまの生活は(貧乏なりに)安定している。

しかし、そんな「ふるさと」を息苦しく感じることがあるのはなぜなのか。


やはり「ふるさと」は遠くにあってもらいたかった。

遠くにあれば甘くて苦い〈郷愁〉に浸ることもできただろう。

〈郷愁〉とは「ここ」ではない「どこか」、「いま」ではない「いつか」へのあこがれなのだ。「ふるさと」が「いま・ここ」になってしまったら、もう〈郷愁〉の対象ではなくなってしまう。

だから「ふるさと」は遠くになければならないし、実際に帰るべきところではないのだ。

それは「帰りたい」という願望の中にだけ存在すべき場所なのだ。

 

 今週のお題「遠くへ行きたい」