何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

空に吸われし……

 

今週のお題「空の写真」……ということなのだが、私には写真を撮るという習慣がほとんどないので(どうしてみんなあんなに写真を撮るのだろう?)、勝手ながら、好きな短歌をひとつ。

 

      不来方お城の草に寝ころびて

      空に吸われし

      十五の心

  

石川啄木の短歌だ。教科書にも載っているので、覚えている人も多いかもしれない。私もたぶん授業で習ったのだと思う。

 

不来方(こずかた)は盛岡の古い名前。その不来方城の城跡の草地に寝ころんでいるという、情景としてはとてもシンプルな歌だ。

「空に吸われし」というのがいい。心がふわっと浮き上がって、そのまますーっと空に呑み込まれていくような浮遊感が心地いい。読みようによっては、ちょっと幽体離脱体験のようでもある。

 

空に吸い込まれた心はどうなるのだろう?

最初はまだ〈私の心〉であるはずだ。しかし、だんだんその〈私〉を形作る自我の境界が揺らいできて、曖昧になり、〈私〉は端のほうからじわじわと崩れていく。やがて〈私の心〉から〈私〉が消えてなくなり、ただの〈心〉になって、鳥のように、雲のように、風のように広がって空の中に溶けてゆく。空とは、あるいは、そうやってできた人の〈心〉の集合体なのかもしれない。

……なんてことを夢想する。

 

しかし、そんなふうに「空に吸われ」るのも、しなやかで軽やかな「十五の心」であればこそ。

いくら空の吸引力が強くても、凝り固まって重くなり、余計なものを引きずっているおっさんの心は、もう浮上しないかもしれないなあ。