何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

スローなブログにしてくれ

 

ブログを始めて2年経ったが、いまだにブログの方向性が定まっていない。

試行錯誤を繰り返している、と言えば多少は聞こえがいいが、フラフラして腰が落ち着かない感じがする。

そんなふうだから(2年続けた割には)あまり読まれていないのかと、なけなしの自信がさらになくなり、迷いも深くなる。

 

そこで何かの参考になればと、こんな本を読んでみた。

鈴木芳樹『スローブログ宣言!』技術評論社、2005)

 

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最初に断っておくと、これは今から16年前に書かれた本なので、ここに書かれていることをそのまま現在に当てはめることはできない。

当時と現在とでは、インターネットやブログをめぐる状況がかなり違う。当時は(おそらく)ブログというものが流行り始めた頃で、それに対して今は「ブログはオワコン」とさえ言われている。

しかし、表面的な部分は違っても、根幹の部分、不特定多数の人に向けてネット上で何かを発信することについての考え方には、現在でも参考になることが多いように思う。

 

私が興味深く思ったのは、著者が、ブログに書かれている個人的な「日記」のおもしろさを強調しているところだ。

現在もそうだが、当時からブログには「役に立つ記事」や「有益な情報」を書くべきで、個人的な「日記」なんか書いても意味がないし、誰も読まないといった意見が強い。

しかし著者は、きれいに体裁が整った記事よりも、「殴り書き」のような日記の方がおもしろいという。そこに書き手の意図しない個性があらわれるからだ。

それに、そういう日記のほうが長く書き続けられる。

 

「価値のある情報を提供しよう」と気張りすぎて、身の丈に合わない「記事」を書いているブログと、本当に言いたいこと、本当に経験したことを伝えようとして自然体で「日記」を書いているブログ。長続きするのはどちらだろうか。より多くのひとに読まれるのはどちらだろうか。(p.123)

 

とはいえ、自分が書いたものに他人があまり反応してくれないとモチベーションが下がるし、心が折れる。ブログを始めた人の多くが1年も続かないというのは周知の事実だ。

しかし、それでも自分の書きたいことを(気長に)書き続けるべきだ、と著者は言う。

 

自分の書いた文章に対する反響がないと、「誰からも相手にされていないのでは?」と不安になり、つい周囲の興味を惹きそうなことを書いたり、がらでもないのに専門的な議論に参加したくなる。それが悪いことだとは思わないが、「注目されたい」「相手にされたい」と思うあまり、本来の自分を見失ってはつまらない。自分の書いていることは、たとえいますぐ目立った反応がなかったとしても、百年後の誰かにとっては何らかの意味があるかもしれない。そんな「スロー」な姿勢でブログと付き合ってもいいはずだ。(p.137-138)

 

「百年後」という言葉は唐突に感じるだろうが、これは百年前に書かれた市井の人の日記が今では貴重な文化的資料になっているという文脈で出てきた言葉だ。 

まあ、百年後はともかく、自分が書いた文章にいつか誰かが興味を持ってくれるかもしれない、というぐらいの気持ちで書き続けていこうということだと思う。

 

なかなか「結果」が出ないことをやり続けるのは難しい。

しかし、それではブログにおける「結果」とはなんだろう?

収益を得ること? 承認欲求を満たすこと? 見知らぬ人と交流すること?

どれも間違ってはいないと思うが、なにかもっと違う「結果」があるような気がする。

それが何なのか、私にもわからない。ただ感じるのは、それは1年や2年続けたぐらいでは見えてこないだろうということだ。

その「結果」が何かわかるまで、気長に書き続けたいものだ。

そんなことを思った。

 

 

日本文学全集読破計画

 

もう何年も前からやろうと思いつつ、実行できなかったことがあって、それが「日本文学全集読破計画」だ。

計画の内容はとても簡単で、まず昭和に刊行された「日本文学全集」を一揃い古本で買って、それを第1巻から順に読んで全巻読破するというもの。

 

若い頃から少しは(いわゆる)「文学」を読んできたつもりなのだが、それはいたって気まぐれな読書で、気が向いたときに気になった作家の作品を読んできただけだった。

それが悪いというわけではないけれど、もう少し大系的にというか、文学史的にというか、日本の近現代文学の流れの中で個々の作品を読んでみたいと思ったのだ。

それには日本文学全集を読むのが一番いい。

 

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大正15年から始まった改造社の『現代日本文学全集』を筆頭に、昭和の時代にはさまざまな日本文学全集が刊行された。

とりわけ昭和30年代40年代には、各出版社がそれぞれ何種類もの文学全集を刊行し、それがまたよく売れた。(実際に読まれたかどうかは別にして)

その背景には高度経済成長期の「一億総中流」意識や、人々の「教養」に対する憧れや見栄などがあったのだと思う。一家に一組文学全集、みたいな。

しかしそうした「教養」としての文学、「教養」としての読書というのは、いまとなっては時代錯誤のように思える。

その時代錯誤的読書を敢えてやってみたい。

 

大事なのは、第1巻から順に、巻を飛ばさずに一冊ずつ読んでいくこと。(過去に読んだことがある作品も再読する)

「この作家は前に読んだことあるけど、あまりおもしろくなかったから今回はパス」みたいなことはしない。読まず嫌いももちろん駄目。あくまでも愚直に全部読むこと。 

途中で気になった作家がいれば、その全集に収録されてない作品を探して読んでもいい。そういう寄り道やまわり道はいい。でも近道はしない。

 

しかし、実際に日本文学全集を購入しようと思うと……これがなかなか決断できない。

金銭的な問題もなくはないが、それよりも一度に数十冊の本を買うということに対する心理的な圧迫感がかなり大きい。もちろん空間的な圧迫感も。

 「なにも自分で購入しなくても、図書館があるじゃないか」と思うかもしれない。

たしかに私が住んでいるところの市立図書館にも、スタンダードな日本文学全集が置いてある。しかし図書館の本はどうも落ち着かない。

私は超遅読なうえに、昔の文学全集はたいてい二段組で500頁前後ある。貸し出し期間中に一冊読みきるのはかなり難しい。(そればかり読んでるわけにもいかないし)

それに複数の作家の作品や年譜を比較したくなるかもしれない。

やっぱり自分で一組持っていたいと思うのだが……。

 

しかし迷ってばかりもいられない。

仮に、全70巻の文学全集を月に一冊のペースで読むとすると、全部読み終わるのに5年と10ヶ月かかる。ほとんど6年だ。

これから6年、(本が読める程度に)そこそこ元気に生きていられるという保証はどこにもない。そう考えると、できるだけ早く始めたほうがいい。

よし、今年こそ計画を実行しよう。

うん、実行したい。

実行するかも……。 

 

今週のお題「今年、学びたいこと」 

小よく大を制す

 

前回、春の陽気に誘われて(?)本屋と古本屋に行ってきたという話をしたのだが、その夜、別の事で「啓蟄」という言葉を検索していたら、こんな俳句に行きあたった。

 

啓蟄や書肆ニ三軒梯子して(安住敦)

 

啓蟄」は二十四節気の一つで、暖かくなって冬籠りしていた虫が這い出てくる頃(現在の暦ではだいたい3月5日か6日)をいう。俳句では春の季語になる。

暖かくなって、出歩くのにもいい気候になり、本屋を二、三軒梯子したという、ただそれだけの単純な句のように思える。

しかし(控えめながら)うきうきした「気分」が伝わってくるし、「ニサンケン」という言葉のリズムもなんだか弾んでいるような感じがする。

私がとくに本屋が好きだからかもしれないが、なんか「いい感じ」の句だ。

 

この句を見つけたとき、「ああ、やられたなー」と思った。

前回の記事で、私が1000字あまり費やして表したかった「気分」を、わずか17文字で簡潔に表されてしまったと思ったのだ。

こういう事はよくある。

 

ふと、「小よく大を制す」という言葉が頭に浮かぶ。

格闘技なんかで使われる言葉で、小柄な選手が体格差のある大きな選手に勝ったときによく言われる。はっきりした典拠(中国の古典とか)がある言葉かと思っていたが、そういうわけではないらしい。

たとえば相撲でも、小兵の力士が巨漢の力士に勝ったときは、一際大きな歓声が起こる。日本人はとりわけこういう場面が好きなような気がする。

(少し適当なことを言うけれど)こういうのも日本人の「小さなもの」に対する美意識のあらわれなのかもしれない。

 

(もう少し適当なことを言えば)何百字、何千字費やしてもうまく言い表せない「気分」や「感覚」を、17文字でピタリと表す俳句の快感も、この「小よく大を制す」に通じるものがあるような気がするのだが、どうだろう?

 

 

散財に耐えられない(財布の)軽さ

 

今週は仕事のシフトの都合で、金・土・日の3連休になった。

いつもならずっと家にこもってアニメばっかり見るところだが、いまはなぜか気持ちがちょっとだけアクティブになっているので、久しぶりに隣の市にある大型書店とブックオフに行くことにした。

で、昨日の金曜日に行ってきた。

 

午前中から出かけるつもりが、ぐずぐずしているうちに昼過ぎに。

天気がいい。前日まではバイクに乗る時にまだ薄手のダウンを着ていたのだが、この日はスウェットにウィンドブレーカーで外に出る。風が暖かくて気持ちいい。

1時間ほどで最初の目的地のブックオフA店へ。この店は半年ぶりぐらいか。

均一棚を中心に1時間ぐらいうろうろし、単行本2冊と文庫本3冊を購入。内容はまあまあ。

もう少し均一じゃない棚を丁寧に見たかったが、まだ後があるので店を出る。

 

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次に市の中心部にある駅に向かう。

なぜ駅になんか来たかというと、ここで別の市にある古本屋が出張して「一人古本市」をやっているからだ。

何年か前から、ほとんど毎月、5日間ほどこの駅の構内に場所を借りて臨時の店(といってもワゴン5つぐらいだが)を出して古本を売っている。私も以前2度ほど来たことがあった。

昨年は新型コロナのためにほとんどできなかったようだが、また復活したとTwitterに書いてあったので、暖かくなったら行ってみようと思っていたのだ。

駅の入り口付近にワゴンが並んでいて、通りがかった人がときどき本を見ていく。平日の中途半端な時間なので、あまり人は多くない。

古本関係の本を読んでいると、昔(昭和30年代ぐらいまで?)は露店で古本を売っている人たちがいたという話がよく出てくるが、こんな感じだったのかもしれないと思う。

あまり時間をかけずに、安い本を2冊だけ買う。

ライダースジャケットを着た若い女性が店番をしていたのだが、それがよく似合っていて格好良かった。

 

続いて大型の新刊書店へ。

今日の目的だった本の雑誌4月号を確保して、もう一つの目的の文庫本を探したのだが、見つからなかった。まだ現役だと思っていたのだが、品切れだろうか。仕方ない、家の中を探してみるか。

それから漫画の棚に行き、買いそびれていた小川悦司中華一番!極』講談社)の8巻と9巻を買う。この漫画は20年前の『真・中華一番!』の続編で、物語としては前作と同じような展開なのだが、つい読んでしまう。

ほかにも買いたい漫画があったが、今回は自重。少々財布の中身が心許なくなってきた。今月あと10日もあるし。

 

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と言いながらもう一か所だけ、ブックオフB店へ。

ここは3ヶ月ぶりぐらいだが、ざっと見た感じ、前回とあまり変わりばえがしないような気がする。

これといったものもないので手ぶらで帰ろうとしたところ、岩波文庫『橘曙覧全歌集』を見つける。橘曙覧(たちばなのあけみ)は幕末の国学者にして歌人。最近ちょっと気になっていたのだ。

気を良くして、ほかに均一の文庫も2冊買う。 

店を出たときにはもう暗くなっていた。往きと違って帰りは風が冷たい。まだ春も早い。

 

帰宅したときにはすっかりくたびれていたけれど、満足感のある疲れだった。

タブレットの画面を見ながら本を買うのも便利でいいが、実店舗の棚を見ないと勘が鈍くなるような気がする。

棚の本を手に取るときのあの軽い高揚感がいい。

やっぱり本屋は楽しい。

 

 

先輩・後輩

 

いままで読んだことがないブログにふらっと入ったとき、記事を読んだあとに必ず確認するのがそのブログの「月別アーカイブ」だ。「はてなブログ」ならサイドバーか、記事の下に表示されている。(カレンダー表示の場合もあるけど)

これを見ると、その人がブログを始めてどのくらいになるかがわかる。

それがわかったからどうしたということもないのだが、自分より長くやっている人を見ると、なんとなく「先輩」と思ってしまう。

 

ネットの中では(自分で申告しなければ)年齢や経歴などはわからない。序列のない自由な世界(のはず)だ。

そこに「先輩・後輩」なんていう概念を持ち込むのはナンセンスだとは思うけれど、なんとなくそう思ってしまう。古い人間なので、そういう考え方が染みついているのかもしれない。

 

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逆に自分よりもブログの継続期間が短い人を「後輩」と思っているわけではない。

……いや、正直に言えば、ちょっとだけ先輩気分がなくもないかな。

しかし、ブログを始めて3ヶ月ぐらいの人が「読者」300人だったり、「月間PV数10000超えました!」なんて書いているのを見ると、零細ブログの書き手としては、

「そっ、そうなんだ。これからもその調子でガンバリタマヘ!」

などと言って、すごすごとその場を立ち去ったりする。(そこまで卑屈にならなくてもいいのだが)

なんだか職場に必ず一人はいる「できない先輩」みたいだ。

 

試しに「ブログ 継続率」で検索してみると、いろいろな人がそれぞれの根拠で数字を挙げているが、ざっくり言えば、ブログを1年継続できる人は全体の1割から3割ぐらいらしい。

もちろんこういう統計には曖昧なところがあって、どの程度の更新頻度を「継続」とみなすかとか、ブログの目的の違い(趣味か、収益か)とか、そのブログサービスではまだ日が浅くてもほかの所で長くやっていたという場合もあるので、あくまでも参考程度の数字だ。

私は明日でブログを始めて2年になるけれど、「はてなブログ」を見ていると2、3年続けている人はザラにいるようにも思える。しかし私の知らないところで、無数のブログが生まれては消えていっているのだろう。

 

なんでも長くやればいいというものでもないだろうけど、長くやってみて初めてわかるおもしろさというものがたしかにあって、ブログにもそれがあるような気がする。

そのおもしろさがわかるまで、ブログを続けることができるだろうか。

 

 

絵葉書を読む(その5) 明治天皇御大喪

 

『絵葉書を読む』第5回。今回の絵葉書はこちら。

明治天皇御大喪御霊轜馬場先通御』

 

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「霊轜」(れいじ)は霊柩を乗せた車のこと(轜車)。絵の右上に見える車がそうなのだろう。明治天皇の葬列を描いた葉書である。

 

明治45年7月30日、時の天皇崩御して「明治」という時代が終わった。そしてその日から元号が「大正」にかわる。

大喪に伴う様々な儀式を経て、約ひと月半後の大正元年9月13日に「葬場殿の儀」(一般の葬儀・告別式にあたる)が陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で執り行われた。その後柩は特別列車などで京都に移され、伏見桃山の陵墓に奉葬された。

当日は多くの人々が宮城(皇居)を訪れ、また沿道で葬列を見送りその遺徳を偲んだという。

 

上の絵葉書の差出人も当日宮城に行った一人だ。表の通信文を引用する。

 

拝啓、其后(そのご)は意外に御無沙汰致し候(そうろう)。貴兄には如何御消光遊され居り候や。次に当校にては、一昨日御大葬奉送の為め、本科生だけ宮城前に参拝致し候。当日の雑沓の光景は新聞紙上にて御承知かは候はねども、吾等学生は余り困難せず参拝の出来し事は幸福と存じ候。同志会の諸君に宜しく。草々。 (消光=月日を送ること)

 

宛先が某(旧制)中学校の寮になっているので、宛名人も差出人も中学生(現在の高校生ぐらい)と思われる。(若いわりには古風な文章を書くものだ)

歴史的な出来事も、無名の一個人の手書きの文字で語られると、本で読むのとはまた違ったリアリティがある。 

 

ところで上の絵葉書に押された消印の日付は大正元年9月15日(夕方)で、通信文にもあるように、御大喪の翌々日に出されたものだ。そうすると、この絵葉書はものすごく急いで作られたことになる。

葬列が宮城を出たのが13日の午後8時。それから急いで(たぶん写真を見ながら)原画を描き、製版し、印刷し、絵葉書を作る。その絵葉書を販売店に卸し、店に並んだ絵葉書を差出人が買って、文章を書いて出す。この間約2日。

この絵葉書は私的な通信と同時に、公的なニュースをほとんどリアルタイムで伝えているわけだ。

絵葉書が一種のメディアでもあることの好例といえるだろう。

 

 

無為な休日の短歌

 

今日は休日、なのだが、必要最低限の外出(金融機関、スーパー)しかせずにほとんど家にこもっている。

こう書くと「まあ、コロナ禍だからしかたがない」と思われるかもしれないが、そうではない。実は2年ぐらい前からこんな休日が増えているのだ。

必要最低限でも家の外に出るのはまだいい方で、前日に食料を買いこんで、休日は文字通り一歩も外に出ないという日も多い。本当に一歩も。

 

では家で何をしているかといえば、動画(ほとんどアニメ)ばかり見ている。

私の家にはパソコンはなく、もっぱらタブレットを使っているのだが、以前は通信量が限られていたため、よほどのことがないと動画なんか見なかった。それが2年前、携帯ショップの人の口車に乗ってに勧められて家にWiFiを引いてから動画を見ることを覚えた。これがいけない。それ以来、だらだらと動画ばかり見ている。

いや、人のせいにしちゃいけないな。WiFiや動画が悪いわけじゃない。

つまりは私に克己心というか、自分を律する力がないからそういうことになる。そういう人間にとって、安易な娯楽にあふれた今の世の中はとても危険だ。

ご利用は計画的に。

  

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しかし、それでは動画を見る時間を減らせば建設的で有意義な休日が過ごせるかといえば、そういうわけでもなく、やっぱりなんやかんやでだらだらと一日が終わってしまって、後から「せっかくの休日だったのに」と思うのだ。

 

そんな無為な休日のひとコマを短歌(のようなもの)にしてみました。ご笑覧ください。 

 

100ページ栞が動いた分だけが

今日という日の証明になる

 

積もらずにはかなく消える淡雪を

ふと思い出すATM前

 

はかれどもはかれども

わが血圧低くならず

フッとため息

 

小松菜のおひたし作っているうちに日が暮れてゆく

そんな休日