何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

油風呂

 

子どもの頃、お盆で親戚が集まったとき、みんなで冷たい麦茶を飲んでいる中で叔母の一人が熱いお茶を飲んでいた。

なんで熱いお茶を飲んでるの? と訊くと、暑いからといって冷たいものばかり飲んでいると体に悪いから、あえて熱いものを飲んでいるという答えが返ってきた。そのときは「そういうものかな?」と思ったけれど、「暑いときには(あえて)熱いもの」というのがなんとなく頭に残った。

 

というわけで、このクソ暑いときに、あえて熱苦しい画像を用意した。

男塾名物、油風呂ッッ‼︎

 

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 (私と同世代の男性なら説明不要だと思うが )説明しよう!

「油風呂」とは、宮下あきら『魁‼︎ 男塾』に出てくる、男を極めるための訓練(?)の一つだ。

油をいっぱいに満たした金ダライの中に入って座り、下から火を焚く。油温はどんどん上昇するが、油面にはロウソクを立てた小舟が浮いていて、ちょっとでも身動きすれば倒れて引火してしまう。そのロウソクが燃え尽きるまで微動だにせず耐えなければならない。

これが男塾名物「油風呂」である。

知らない人は「アホか」と思うかもしれないが、いいんです、『男塾』だから。

 

40度を超える酷暑でも、「油風呂」にくらべれば屁でもない……わけないか。

 

念のために書いておきますが、良い子はぜったいマネしないように。

 

今週のお題「暑すぎる」

 

 

吸血鬼

 

5、6歳ぐらいのことだったと思うけれど、3日続けて同じ夢を見たことがある。

「怖い夢」だった。

 

私はいつものように幼稚園に行った。

教室に入って友だちの顔を見ると、なんだか様子がおかしい。

そのとき突然、友だちがみんな吸血鬼にされていることに気づいた。

私は逃げた。友だちが追ってくる。噛まれれば私も吸血鬼にされてしまう。

どこをどう逃げているのかわからないが、必死で逃げた。しかしだんだん追い詰められる。もう駄目だ。そのとき、ふと、こんなことを思った。

もう噛まれてもいいんじゃないか? 噛まれれば吸血鬼になるけれど、何か問題があるだろうか? 友だちもみんな吸血鬼なんだから。

とうとつに行き止まりになった。振り返ると、みんながじわじわとこちらに迫ってくる。そして……。

 

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ここで場面が一転する。

グラウンド(のようなところ)で、私は友だちと一緒に仲良くサッカーだかドッヂボールだかをやっている。みんな笑っていて楽しそうだ。

どうやら事件は終わったらしい。よかった。めでたし、めでたし……なのだが、これはいったいどういう終わり方なのだろう。

誰かが吸血鬼のボス的存在(夢には出てこない)を倒して、みんなが人間に戻れたのだろうか?

それとも、私が噛まれて、みんなと同じ吸血鬼になったのだろうか?

 

 今週のお題「怖い話」

 

 

日記と新しいノート

 

日記を再開するために、新しいノートを買ってきた。

日記といっても毎日書くわけではない。もともと購入した本を記録するために書き始めたもので、それに日々の出来事や気分などを書き加える感じのものだ。

とくに書くことがない日は書かないし、1日が2、3行の日もあれば、1ページ以上書くこともある。

そういう日記を、数ヶ月のサボりや中断を何度もはさみながら、20年ぐらい続けていた。

それが2年前の父の死から途切れてしまった。出来事にしても、気持ちにしても、あまりにも記録しておくべきことが多すぎて、どう書いても書ききれるものではないと思うと、気持ちが萎えてしまったのだ。(もちろん葬儀をはじめ煩雑な手続きが多くて、それどころではなかったということもある)

しかし、不完全でも断片的でも、その時のことを書き残しておけばよかったなと、いまになって思う。書いたからどうした、ということもないけれど、そう思う。

 

昔買った本のことを調べるために日記を読み返すことがまれにあるけれど、そういうときはついつい読み耽ってしまう。

書かれているのはたしかに自分のことなのだが、他人事のようでもある。「そんなことでイライラするなよ」とか、「ゴタクはいいからとりあえず働け」とか、昔の自分にツッコミを入れるのはなかなか楽しい。

ちなみに日記に使っているのは普通のノートなのだが、「無線綴じ」や「糸綴じ」のものではなく、ずっと「ダブルリング」のものを使っている。なんでそこにこだわりを持っているのか、もはや自分でも覚えていないけれど。

 

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せっかくブログを書いているのだから、(公開できる部分は)そこに書けばいいじゃないかと思わなくもない。

実際にそういうふうにブログを使っている人もたくさんいるし、読むほうも、普通の人の普通の日常を読むのが好きだという人もいる。

しかし私の中では、日記は紙のノートに書くものだという固定観念が根強い、というか、単純にそっちの方が好きなのだ。

冊数を重ねて、ノートが積み上がっていくその物理的な存在感が、自分がたしかに存在してきたことの証のような気がするからかもしれない。錯覚だけど。

 

それに、日記に限ったことではないけれど、新しいノートを使い始めるときのあの気分の良さはデジタルでは味わえない。

どう言えばいいのか、ノートが新しくなったことで、まるで自分自身も「新しい自分」に更新されたような気がする。これも錯覚だけど。

なにも書かれていない真っ白なノートに、ペンでインクを刻みつけていくときの筆圧の快感。

しかし、残念ながら、そうした気分の良さも長くは続かない。

その真っ白だった紙面を、見慣れた悪筆が埋めていくので。

 

 

店内放送

 

先日、ほとんど利用したことのないスーパーで買い物をした。

普通に商品を見ていたのだが、なにかちょっとした違和感のようなものを覚えて、あれ、なんだろう? と考えたところ、店の中が静かなのに気づいた。

つまり音楽や店内放送の類がまったくなかったのだ。

聞こえるのは客がカートを押している音や店員が作業をしている音、セルフレジの「お釣りをお取りください」という音声だけで、ほとんど無音といってもいい。

違和感の理由はわかったけれど、同時に、自分にとって店内の音楽や放送がいかに「あたりまえ」のもの、「自然」なものになっていたかにも気づいた。

 

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かなり前に中島義道『うるさい日本の私』を読んだのだが、その中で著者は、私たちの日常がいかに「過剰な音」で満たされているか、いかにそれに無感覚になっているかを指摘して、激しく批判していた。

いろいろな店の店内に流れる音楽や放送などはその最たるものだろう。本来静かな場所であるべき書店でさえも、クラシックやジャズなどを流しているところが多い。

どこに行ってもたいていそういうものだし、毎日聞いているうちにそれがあたりまえで、普通で自然なことになっている。要するに感覚が麻痺してしまっているわけだ。

私もそうなので、それをとくに気にすることもないし、冒頭にも書いたように、逆にない方が気になってしまう。

普段から過剰な音の中にいると、静けさに耐えられなくなるのかもしれない。

過剰さに慣れてしまうのも考えものだ。

 

ついでに、これはいつも行っている(放送がある)スーパーでの(どうでもいい)話。 

買い物をしているとこんな放送が聞こえてきた。

「○○(商品名)を使ってハレンチ料理をお楽しみください」

ハレンチ料理⁉︎   ハレンチ料理ってなんだ⁉︎

私の頭の中には伝説の「女体盛り」や90年代の「ノーパンしゃぶしゃぶ」などといったハレンチ極まりないものが浮かんできたのだが……。

放送がリピートされていたのでよく聞いてみると……ハレンチ料理ではなくアレンジ料理ね……。

うん、まあ、そりゃそうか。

でも、ハレンチ料理、ちょっと気になる。

 

 

冬を待ちわびて

 

夏である。

毎年のことだが、庭の雑草がえらいことになっている。

草は伸びるにまかせよ、とばかりに放置しているので、知らない人が見たらとても人が住んでいるとは思わないかもしれない。まあしかし、誰に迷惑をかけるわけでもないのでいいか、と思っていたのだが、敷地の入り口付近の雑草が伸びすぎて車が入りにくくなってしまった。

私自身はバイクにしか乗らないのでいいのだが、外からくる人が困る。

私の家を訪ねてくる人などめったにいないが、それでもたまに用事があってくる人がいるし、荷物の配達もある。せめて車が入ってくるところだけでも草を刈らないと他人様の迷惑になる。

ということで、休日に草刈りをする。

 

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久しぶりに草刈機に燃料を入れて、スターターを思いっきり引く。

……が、ウンともスンともいわない。いや、正確にはプスンプスンとはいうけれど、エンジンがかからない。

去年買ったばかりなのだが、2回ほど使って、ろくに手入れもせずに放置していたのがまずかったのか。とにかく動きそうにない。

チッと舌打ちしたけれど、内心少しホッとした。どうもこの草刈機というのが苦手なのだ。

けたたましい音をたてるのも嫌いだが、むき出しの刃の部分がちょっと怖い。

私は機械に対して臆病なところがあって、慣れない機械はあまり使いたくない。

車の運転なんかもそうで、運転すると事故を起こすイメージしかない。みんな普通に乗ってるよ? と言われるのだが、「みんな」ができるからといって私ができるとは限らないじゃないか、と思ってしまう。

話がそれたが、そういうわけで、草刈機も積極的には使いたくない。いつか、部屋の中を勝手に掃除してくれるロボットみたいに、敷地の中の雑草を勝手に、安全に刈ってくれるロボットができないかなと思う。

 

仕方がないので鎌を使うことにする。

腰をかがめて、ときにはしゃがんで、ザクザクと刈っていく。日頃運動不足の中年にはけっこうしんどい。

しかし、この作業で辛いのは疲労ではない。蚊だ。

どこからともなく湧いてきた無数の蚊が、例の甲高い音をさせながら顔や体の周りを飛びまわり、隙あらばとりついてやろうとこちらをうかがっている。

もちろん私は作業の前に入念に虫除けを塗っている。奴らもそう簡単には手を出せまい。そう思っていても、顔の近くを飛ばれると平静ではいられなくなる。自衛隊の戦闘機を叩き落とす怪獣の気持ちが少しわかる。

すると一匹の蚊が耳にとまる。しまった、耳には虫除けを塗っていない!(耳なし芳一か⁉︎)

私は少し逆上気味に、左手で虫除けを噴霧しながら、右手の鎌で草を刈っていく。

私はいったい何と戦っているのか?

 

こうして小一時間ほど作業する。

広さにして畳4畳ほどの草を刈ったが、このあたりが限界だ。

500mlのスポーツドリンクを一気に飲み干し、シャワーを浴びて、扇風機の前でぐったりする。

これだから夏は嫌いだ。

すべての雑草が枯れ果てる冬が待ち遠しい。

 

 

その文章には問題があります

 

高橋源一郎『「読む」って、どんなこと?』NHK出版、2020)を読む。

これはNHK出版の《学びのきほん》というシリーズの一冊で、100ページあまりの短い本だ。(帯には「2時間で読める!」と書いてある)

 

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その帯には、「作家40年、初の読書論!」とも書いてあり、まずこれにちょっと引っかかる。

私は、高橋さんの小説はあまり読んでいないが、エッセイや批評、文芸時評などは好きでよく読んできた。

とくに学生時代に読んだ初期のもの--エッセイなら『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』や『ジェイムス・ジョイスを読んだ猫』、文芸時評では『文学がこんなにわかっていいかしら』や『文学じゃないかもしれない症候群』などが好きで、こうした作品から本の読み方を習ってきたと思っている。

だから「初の読書論」と言われるとちょっと違和感を覚えてしまう。(まあ、そんなところにこだわらなくてもいいんだが)

 

この本で取り上げられている文章は、

 オノ・ヨーコ『グレープフルーツ・ジュース』

 鶴見俊輔『「もうろく帖」後篇』

 永沢光雄『AV女優』

 坂口安吾天皇陛下にささぐる言葉』

 武田泰淳『審判』

 藤井貞和「雪、nobody」

など、ちょっと変わったラインナップだ。いわゆる「読書論」を期待していた人は面食らうかもしれない。

しかし高橋さんの本を読み慣れている人は、高橋さんらしいな、と思うだろう。

 

これらの文章の共通点を(やや乱暴に)まとめると、「普通」からはみ出した文章ということになるかもしれない。

別の言い方をすると、いろいろな意味で問題がある文章だ。しかし高橋さんは、そういう問題がある文章こそ「いい文章」だという。

 

 たくさん問題を産み出せば産み出すほど、別のいいかたをするなら、問題山積みの文章こそ、「いい文章」だ、ということです。つまり、その文章は、問題山積みのために、それを読む読者をずっと考えつづけさせてくれることができるのです。

(中略)

 問題山積みの文章だけが、「危険! 近づくな!」と標識が出ているような文章だけが、それを読む読者、つまり、わたしやあなたたちを変える力を持っている、わたしは、そう考えています。(p.64-65)

 

そういう文章は、もちろん学校では教えてくれない。

 

 学校は、「社会」のことばを教える、いやもっと露骨にいうなら「植えつける」場所であり、その「社会」が、その裏にどんなことばを隠し持っているかを見つけることは、ひどく困難です。(p.102)

 

だから自分自身で探さなくてはならない。

 

私たちは、気がつけば、毎日同じような言葉の中で生きている。

「同じような」というのは、繰り返されるというだけではなく、「みんな」が「共有」できるような均質的な、という意味でもある。

同じような言葉の中で生きていると、物事を同じように考えるようになる。それは「みんな」の「社会」にとっては都合のいいことかもしれないが、「私」にとってはどうだろう。

本を読むというのは、誰かと言葉を「共有」することかもしれない。しかしその一方で、けっして「みんな」と「共有」できないなにかを探すことなのかもしれない。

ふとそんなことを思った。

 

 

誰?

 

なにがきっかけだったのか、ふと、泉鏡花高野聖を再読したくなった。

高野聖』なら、隣の市の大型書店に行かなくても、市内の書店にあるんじゃないかと思って仕事帰りに寄ってみる。

いや、まあ、家の中を探せば2、3種類の『高野聖』は見つかると思うけれど、どこをどう探していいのか見当がつかない。結局買ってきた方が早いということになる。

それじゃあ「蔵書」の意味がないのでは? と思うかもしれないが、その通り。(居直り)

よくあることです。

 

市内の書店は、岩波文庫は扱っていないので、探すとすればまず新潮文庫か。

そう思って文庫棚を見るが、残念ながら新潮文庫版はなし。あとは……角川文庫や集英社文庫からも出ていたはずだけど、まだ現役かなあ……と見てみると、おっ、角川版があった。

これ幸いと棚から抜いて、表紙をみると、

 

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目が合ってこちらも「きょとん」としてしまう。
 ……………………誰?

 

本に巻かれていた帯によると、「文豪ストレイドッグス × 角川文庫コラボカバー」ということらしいのだが……。

 

文豪ストレイドッグス朝霧カフカ春河35による漫画で、現在も『ヤングエース』で連載中、既刊19巻、アニメも第3期まで作られている人気作品、らしい。(以下、文末に適宜「らしい」を補って読んでください)

架空の日本を舞台にしたいわゆる「異能バトル」系の漫画で、登場人物は「文豪」と同じ名前を持ち、それぞれの作品にちなんだ「能力」を持っている。

たとえば「中島敦」の「月下獣」は虎に変身する能力で、「太宰治」の「人間失格」は相手の能力を無効化するキャンセラー系の能力だったり。

ちなみに上のカバーに描かれているキャラクター「泉鏡花」(念のために書いておくと、現実の泉鏡花は男性)の能力「夜叉白雪」は、仕込み杖を使う異形・夜叉白雪を召喚し戦わせるというもので、かなり戦闘力が高いらしい。はあ、そうですか。

 

いや、おもしろそうな漫画だとは思う。読んでみたいとも思うけれど、このカバーはなあ……。

角川文庫のカバーはわりと短期間で変わるし、これも一種の「期間限定」なのだと思えばいいのかもしれない。

しかし、こちらとしては『高野聖』の妖艶な世界をイメージして、その雰囲気に浸りたいと思って手に取ったのに、カバー絵がこんなかわいい女の子では、萌えるよりもむしろ萎える。

私は歳の割には漫画やアニメが好きな方だと思っているけれど、それでもこのカバーはどうかと思う。まして、普段そういうものを見ない中高年には抵抗が大きいだろう。まあ、そういう人は岩波や新潮を探せばいいんだろうけど。(ただし、角川文庫の古典作品は意外と註釈や解説が充実している)

 

いやいや、こういうのをきっかけにして、普段「文学」を読まない若い人たちが手に取ってくれれば……なんて、ものわかりのいい大人みたいなことを言ってもいいんだけれど。