何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

絵葉書の誘惑

 

ときどき思い出したようにアンティーク絵葉を集めたくなる。

何年前のことだろう、NHKの『美の壺』という番組で「アンティーク絵葉書」をテーマにした回があって、それを見て「ああ、おもしろそうな趣味だな」と思ったのだ。

アンティークというのが具体的にどの辺の時代を指すのかは曖昧だが、まあだいたい明治から戦前ぐらいだろうか。そこにはいまでは失われた風景や風俗が描かれていて、懐古趣味的な人間にはまことに好ましい。

未使用のものであれば、ただの古い写真やイラストと同じようなものだが(それでも充分興味深い)、実際に使用されたものには、過去にたしかに生きていた人間の痕跡がある。

現実に生きている生身の人間は疎ましいのに、過去に生きた人間の残滓をおもしろいと思うのは、なんとも困ったことだ。

それはともかく、それほど興味深いと思っているのに蒐集に手を出さなかったのは、主に2つの理由による。

1つはお金の問題。アンティークといっても(特別なものを除き)絵葉書一枚がそんなに高いわけではない。「ヤフオク」などを見ても数百円ぐらいのものが多いようだ。しかしこういうものはどうしても〈数〉を集めたくなってくる。塵も積もれば、ということになる。

もう1つは、ある意味お金よりも厄介で、私に整理整頓能力がまったくないという問題だ。蒐集癖があるのに整理整頓能力がないというのは最悪だ。その自覚があるので、何かを集めたいと思っても、思いとどまることにしている……はずなのに、この部屋の惨状はどうしたことか……。

まあ、とにかく、そういうわけで蒐集を躊躇していたのだが、最近また集めたくなってきている。今度は実際に買ってしまうかもなあ。(ブログのネタにもなりそうだし)

 

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ところで、旅行先から家族や友人に絵葉書を送るという文化はまだ残っているんだろうか?

いまだったらスマホで写真を撮ってメールで送れるので簡単だ。わざわざ出来合いの絵葉書を買って、切手を貼って、ポストに投函するなどという手間をかける必要はない。

しかし、そうやって出された葉書にはメールにない味わいがあると思うのは、私が古い人間だからだろうか?

以前にも書いたけれど、手紙というのは小さな《旅情》だと思う。そこには、ある距離を実際に移動してきたという「もの」としての存在感がある。手紙自体がひとつの旅なのだ。

それに比べれば、メールというのは『ドラえもん』の「どこでもドア」みたいなもので、たしかに早くて便利だが、「過程」を省略している分だけ《旅情》には乏しい。(どこでもドア、欲しいけど)

そもそもいまの旅行者は、昔の旅行者に比べて忙しいのかもしれない。2泊3日ぐらいの旅行では、絵葉書を出そうという気にもならないだろう。

もしあなたが比較的ゆったりとした日程で旅行に行って、目的地がけっこう定番の観光地だったら、絵葉書を探して、実際に誰かに送ってみてはどうだろう。もらった人だけでなく、送った自分にとってもいい記念になるのではないだろうか。

そういう昔っぽい旅行もいいかもしれない。

もっとも、出不精で旅行に行かない私が言っても説得力はないけれど。