何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

「わたしはわがままだからお勤めには向かないわ。」

 

一昨日、昨日、今日と3連休だった。

私の仕事は何人かの同僚とローテーションが組まれているタイプのもので、休日も一般のカレンダー通りではなく普通に平日が休みになったりするのだが、連休というのはそんなに多くない。

しかし今は比較的に仕事が暇な時期なので、今のうちに年休を消化しておけとばかりに休みが増えている。

まあ、3連休といっても特に何をするわけでもなく、無為な休日を3回繰り返すだけなのだけれど、それでもやっぱりちょっと嬉しい。

 

でもそのちょっと嬉しい分、連休明けで仕事に行く時は単発の休日の時よりちょっとつらい。

3連休だから3倍つらいということはないけれど、1.5倍ぐらいはつらいかな。

そんな時に頭をよぎるのがタイトルにあげた台詞だ。

 

「わたしはわがままだからお勤めには向かないわ。」

 

これは小山清「落穂拾い」(1952年)という短編の中に出てくる台詞である。

この小説はいわゆる「私小説」の体裁で、語り手の作家である「僕」の日常や出会った人たちが淡々と描かれている。

その最後の方に「僕」がよく行く古本屋が出てくるのだが、そこの店主は若い娘なのだ。いまでこそ若い女性店主の古本屋は少なくないが、この小説の当時は珍しい。(もちろんこの店が実在するかどうかは問題ではない)その彼女の台詞である。

 

 彼女は新制高校を卒業してから、上級の学校へも行かずまた勤めにも就かず、自ら択(えら)んでこの商売を始めた。(中略)「よくひとりで始める気になったね」と僕が云ったら、彼女はべつに意気込んだ様子も見せず、「わたしはわがままだからお勤めには向かないわ。」と云った。(引用は「青空文庫」より)

 

この「べつに意気込んだ様子も見せず」というのがいい。

こういう台詞は、場合によってはとても嫌味な感じがするものだが、彼女が言うと自然に聞こえる。彼女はいつも自然体で、それがとても爽やかだ。

 

 紫色のバンドで髪を押さえているのが、化粧をしない生まじめな顔によく映って、それが彼女の場合は素朴な髪飾りのようにも見える。おそらく快楽好きな若者の目には器量よしには映るまい。自転車に跨っている彼女の姿は宛然(あたかも)働きものの娘さんを一枚の絵にしたようだ。

 

古本好き(ほぼ中高年男性)にはこの小説のファンが多いけど、わかるような気がするなあ。こんな女性店主の古本屋なら贔屓にしたくもなる。

 

彼女は「お勤め」には向かないかもしれないが、向上心がある働き者だ。行動力もあるし、(ちょっと大げさな言い方をすれば)人生に対する前向きな覚悟がある。(でも気負いはない)

それに比べて私はどうか。「お勤め」に向かないのは同じだが、彼女のように自分で自分の人生を切り開こうという気概がない。向いていなくても「お勤め」に行かなければならない所以(ゆえん)である。

「お勤め」とは要するに、誰かに与えられた仕事をこなし、誰かに与えられた休日を過ごし、誰かに与えられたお金で生きるということである。まるで誰かに与えられた人生だ。

いや、こう書くとずいぶんネガティブなことを言っているように聞こえるかもしれないが、必ずしもそういうわけではない。私だって「お勤め」に良いところや楽しいことがあるのもちゃんと知っている。

しかし、ときどきは言ってみたくなるのだ。

 

「わたしはわがままだからお勤めには向かないわ」

 

さあ、明日も4時半に起きて「お勤め」だ。

 

 

冬将軍に申し上げる

 

休日の朝、8時ごろに目を覚ましてトイレに行く。

窓から外を見ると、昨日(木曜日)積もった雪は一日で消え、今日はまた少し寒さが緩んでいるようだ。

そのまま朝食を食べればいいのに、なんとなくまた寝床に戻ってうつらうつらしてしまう。

 

昨日と一昨日は本当に寒かった。

今年の冬は全体的にそれほど寒くなく、4、5日前などこのまま春になるんじゃないかというほどの陽気だったのに、一昨日に急に冷たくて強い風が吹き始め、夜のうちに10cm ぐらいの雪が積もった。

雪国の人から見れば積雪のうちにも入らないだろうけど、雪に慣れない九州の人間はそのくらいで充分あわててしまう。

幸い通勤に支障をきたすことはなかったけれど、てきめんに風邪をひいてしまった。体がだるい。

 

あわてふためく人間を見て、冬将軍め、さぞかし愉快だろう。

一旦退却するかと見せて、取って返して攻め込むとはなかなか味な真似をする。

白い髪を撫でつけ、白い軍服と白いマントをまとい、白い馬に乗って白い丘の上から悠然とこちらを見ている。白いカイゼル髭をたくわえた口元には微笑を浮かべて。

歳の頃なら50前後、程よく引き締まった体躯、軍人として脂が乗りきっている。

かのナポレオンを撤退させたモスクワの冬将軍を先祖に持つ生粋の軍人家系の出身で、それが誇りでもある。

しかし冬将軍よ、自分でも知っている通り、貴殿ではどうしたって春には勝てぬのだ。

春風が吹く前に、今度こそ本当に撤退するがよろしい。

さもなくば、御身が溶けてしまいますぞ。……

 

うつらうつらとそんな馬鹿なことを考えていたら、だんだんまぶたが重くなってきた。

気持ちよく二度寝の沼に沈んでいると、頭のどこかで「しまった、今日はゴミ出しの日だ!」というアラートが鳴ったけれど、一度沼に沈みはじめた体はどうしようもなく、最後は虚しく宙をつかんだ手も消えて、水面には泡だけが残るがやがてそれも消える……。

 

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経年劣化

 

ヤフオク」でブックカバーを買った。

単行本用の布製のやつで、出品者の手作りである。そういうのを年に一枚ずつぐらい買っている。

以前は書店でもらう紙製のブックカバーを使っていたのだが、最近はネットで新刊を買うことが多くなったのでなかなかもらえなくなった。

文庫本用のカバーは安いのが百均でも売っているけれど、単行本用のカバーはどこにでもあるわけではなく、またあったとしてもちょっと高いしデザインも限られている。なのでこういう手作り品を譲ってもらっているのだ。

 

ちゃんと一冊ずつ本を読むのであればそう何枚もブックカバーが必要になるはずはないのだが、一冊を読み終わる前に別の本が読みたくなり、いちいちカバーを掛け替えるのもめんどうで、もう一枚予備があればと思って買っているうちに増えてしまった。

無駄にモノを増やす人の典型ですな。

 

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(画像はイメージです。ウチはこんなに整った読書環境じゃない)

 

しかし、新刊でも古本でも、すべての本にカバーを掛けて読んでいるわけではない。

たしかに汚れやすい装丁の本というのはあって、そういうのには意識的に使っているけれど、その時の気分で使ったり使わなかったり、はっきりとしたルールはない。

 

それに私は極端な美本主義者でもない。

例えば新刊書店で同じ本が2冊並んでいて、一方は完全な美本でもう一方には少しだけ汚れがあるというような場合、そりゃ私だって美本の方を買う。しかしもし汚れがある本だけしかなかったら、(汚れの程度にもよるけれど)たぶんそれを買うだろう。極端な美本主義者は店員に在庫を確認してもらって、わざわざ汚れのない本を出してきてもらうと思う。

これが古本になると一冊一冊の状態の違いがより大きくなるので、美本にこだわると切りがなくなる。

 

紙の本は月日が経てばどうしてもモノとして劣化していく。傷や汚れがつき日に焼ける。

しかし、あんまり傷みが激しいのは困るけれど、自然な経年劣化であればそれほど嫌な感じはしないし、むしろ本の風貌に《味》が出てくるように思う。

50年100年経っていてもまるで昨日刊行されたかのような極美品の本は、コレクターは喜ぶかもしれないが、ちょっと薄気味悪いような気さえする。

私がいまひとつ電子書籍を好きになれないのも、たぶんそれが古くならないからだと思う。普通それは長所なのだろうけど。それとも電子書籍も時間が経てば紙とは違った形で劣化するのだろうか。でもその劣化には《味》はないような気がする。

 

私も紙の本のような《味》のある「経年劣化」がしたい。

 

 

ブログはタイムカプセル

 

はてな」の今週のお題が「自分に贈りたいもの」ということなのだけど、このブログを長く読んでくれている人なら「あんたのことだから、どうせまた本なんだろ?」と思うかもしれない。

ああ、その通りだ。

実際に本以外にあまり欲しいものが思いつかない。いい大人がそれもどうか? とは思うけれど。

しかしその答えでは当たり前すぎておもしろくもなんともない。

 

そこでちょっとひねって、現在の自分ではなく「未来の自分に贈りたいもの」はないだろうかと考えた。

そして思いあたったのがこのブログである。

 

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私がいつまで生きるかはわからないが、そうだな、さしあたって約20年後、70歳の自分を対象にしてみよう。

その70歳の自分が、ある日、ひょんなことで昔書いていたこのブログを思い出す。

さすがに20年後には「はてな」もなくなっているだろうし(失礼)、あるいはブログという文化そのものがなくなっているかもしれない。(今でさえオワコンと言われているのだし)

どういう形で保存しておけばいいのかわからないけれど、とにかくなんらかの形で残しておいたこのブログの存在を思い出すわけだ。昔どこかに埋めておいた「タイムカプセル」を思い出すように。

 

20年前、50歳の時に書いていたこのブログを読んで、70歳の私は何を思うだろう。

私のブログは日記ブログではないし、時事ネタもあまりあつかわないけれど、それでもやはりその文章の端々に時代の刻印みたいなものが押されているだろう。

そういえばあの頃は……と、昔を懐かしむ縁(よすが)ぐらいにはなってくれるはずだ。

そう考えると、こんなとりとめのない駄文でも書いておく意味があるのかもしれない。たとえ「黒歴史」になったとしても。

せいぜい今のうちにいろいろな記事を書いて、ブログというタイムカプセルの中に入れておこう。

 

20年後の私が、この『何を読んでも何かを思いだす』というブログを読んで、何かを思い出してくれたらいいなと思う。

 

今週のお題「自分に贈りたいもの」

 

 

買い物は毎日したい派

 

仕事帰りに毎日のように通っているスーパーがある。

その入り口近くに3台の自動販売機があって、冬になるとそのうちの2台に缶のおしるこが入る。私はこれが好きで、来るたびに、ということは毎日のように買って飲んでいる。ささやかな冬の楽しみだ。

ところが今月になって早くもこのおしるこが消えてしまって、その場所にありふれたココアが入っていた。なぜだ? まだ2月なのに。

これから何を楽しみに残りの冬を過ごせばいいのか。

 

いや、おしるこの話がしたいのではなかった。

最初に書いたように私はだいたい毎日仕事帰りにスーパーで買い物をしている。そのスーパーは通勤路にあるわけではないので少しだけ回り道になるけれど、24時間営業なのでものすごく重宝している。そしてなによりも安い。(これが大事)

けっこう大きな店で、衣料品や日用品のほかにも医薬品やカー用品なども置いている。生活に必要な物はだいたいここだけで用が足りる感じだ。

以前は3、4軒のスーパーを利用していたのだが、だんだんめんどくさくなって今ではほとんどこの店だけで買い物を済ませている。

 

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私は毎日のように買い物に行くけれど、女性誌の節約特集などを読むと(そういうのが好きなのだ)買い物は一週間に一回か二回まとめ買いした方がいいという。

買い物の回数を減らせば、それだけ無駄な物を衝動買いする機会がなくなるし、時間の節約にもなる。

なるほど、もっともだとは思うものの、やっぱり私は少量の物を毎日ちょこちょこ買うほうが好きだ。というよりも、毎日買い物に行くためにあえてまとめ買いをしないようにしているところがある。

どうやら私には、買い物は毎日するものだという「固定観念」みたいなものがあるらしい。

 

たくさんの商品の間をああでもないこうでもないと考えながらうろうろし、でもやっぱりいつも買っている自分の定番を買って帰る。

ただそれだけのことだけど、この職場と家の間にある買い物の時間が、自分の生活に適当なリズムをつくっているのかもしれない。

 

……そんなことを考えながら、ありふれたココアを飲んでいる。

 

 

「ただ知りたいだけだ」

 

前回、岡崎武志、古本屋ツアー・イン・ジャパン編『野呂邦暢 古本屋写真集』ちくま文庫、2021 )という本について書いた。

 

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この本の元版は2015年に盛林堂書房から刊行されたもので、このちくま文庫版はそれを増補再編集している。その増補として、本が出てくる野呂の短いエッセイが9篇収録されているのだが、これがすごくいい。

 

そのエッセイの一つに「蔵書票」と題されたものがある。

わずか3ページの文章なのだが、それを読んで私はなんだか胸が熱くなった。

そこには中学生の頃の野呂自身と、本好きだった彼の叔父さんが出てくる。戦争と家庭の事情でアカデミックな教育が受けられなかったというその叔父さんは、気になることはとことん調べなければ気が済まないという性分の人だったらしい。

 

ミネルバの梟は夕暮れに飛ぶ」という言葉の出典を若い叔父は知りたがって、かたはしから事典類をひっくり返し、図書館に出かけて文献を当っていたのを私は知っていた。(……)町を二人で散歩しているとき、ふいに立ちどまって虚空をにらみ、口の中でぶつぶつ呟いていたかと思うと慌しく自宅に引き返して辞書のページをめくることがあった。

「それを知ってどうする」と私はたずねた。

「ただ知りたいだけだ」

 と独身の叔父は答えた。(p.138-139、太字は引用者による)

 

1937年(昭和12年)生まれの野呂が中学生の頃というからまだ戦後間もない時期で、場所は長崎県諫早市だろう。

書店であれ図書館であれ、その時期のその場所での本をめぐる環境が恵まれたものだったとは思えない。その中で叔父さんは知りたいことを知るために奔走する。今みたいに、いつでもどこでも、なんでも検索して簡単に情報を得られる時代ではない。

しかもその知りたいことというのが、およそ現実では何の役にも立たないようなことなのだ。(失礼ながら)たぶん親戚の中でも変わり者と思われていたのではないだろうか。「それを知ってどうする」と問いたくもなる。

それに対して叔父さんは一言、「ただ知りたいだけだ」と答えるのである。

何かの目的があって知りたいのではない、それを知ったからといって何がどうなるわけでもない、ただ知りたい。だから調べる、学ぶ、本を読む。

その答えには「知ること」「学ぶこと」に対する清々しいまでの(そしてある意味痛々しいまでの)純粋さがあるような気がする。

 

もし誰かに「あなたは何のために本を読んでいるのか? それで得た知識が何の役に立つのか?」と問われたら、私もこう答えたい。

「ただ知りたいだけだ」と。

 

 

同好の士

 

昨年の10月から12月にかけて古本関係の新刊(まぎらわしい)が立て続けに刊行された。

なかでも嬉しかったのは岡崎武志、古本屋ツアー・イン・ジャパン編『野呂邦暢 古本屋写真集』ちくま文庫、2021 )である。

 

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この本は2015年に盛林堂書房から刊行された同書を増補再編集したものだ。盛林堂書房は東京の西荻窪にある古書店で、マニアックなミステリーなどを中心とした出版も行なっている。

その元版は定価2500円で500部出版されたのだが、あっという間に完売し、現在では一万円以上(店によってはその倍も)の古書価がついている。

なので、こうしてちくま文庫から新刊として求めやすい形で再び出版されるのはとてもありがたいことなのだ。(元版を持ってる人には気の毒だが)

 

この本に収録された80枚ほどの写真は、42歳という若さで亡くなった作家野呂邦暢が自ら撮影したものだ。しかもその写真の多くは神保町や早稲田などの(70年代の)東京の古本屋の店頭を写したものである。長崎に住んでいた野呂が上京の度に撮ったものらしい。

今ならブログやSNSに載せるために自分が行った店の写真を撮る人も珍しくはないだろうが、もちろん野呂の時代にそんなものはないので、その古本屋の写真はまったく自分だけのために撮ったものだ。

 

そもそも当時と今とでは、写真を撮るという行為の重みが違うような気がする。

今なら店に行ったついでにスマホで撮ればいいけれど、昔は(変な言い方だが)写真を撮ることしかできないカメラをわざわざ持ち歩かなければならなかったのだ。

しかも撮った後にすぐ画像を見ることはできず、撮り終わったフィルムをカメラ店に持っていって数日かけて現像してもらわなければならない。

要するに、昔は写真を撮るという行為は今よりずっとハードルが高くて手間暇がかかることだったのだ。

野呂もそんなふうに手間暇かけて写真を撮って、一人でその写真を見ながら東京の古本屋に思いを馳せていたのだろう。(同じく九州に住む者としてその気持ちはよくわかる)

写真の巧拙はともかく、古本屋が好きだという気持ちだけは充分に伝わってくる。

 

そしてそれは野呂だけではなく、この本に関わった3人(岡崎さん、古ツアさん、盛林堂書房の小野さん)も同じだろう。

もともとこれらの写真は岡崎さんが野呂の遺族から個人的に譲り受けていたもので、それを他の2人にも見せたら本にしようということで盛り上がって元版の出版に至ったものらしい。

3人の古本屋好きが、いや、野呂自身も含めて4人の古本屋好きが、ただただ「古本屋が好き」という気持ちひとつで作った本。

これはそういう本だ。

 

半世紀ほど前の古本屋の写真集というどこをどう見ても地味でマニアックな本なので、誰にでも勧められるものではないけれど、同好の士であればぜひ。