子どもの頃はよく時代劇を見ていた。
とくに好きだったのは高橋英樹(敬称略、以下同じ)の『桃太郎侍』だ。
日曜の夜9時からという、子どもには少し遅い時間のテレビだったが、親がそういうところには寛容(というかルーズ)だったので、毎回楽しみに見ていた。
物語の終盤、悪人たちがボス的な武家(○○奉行とか、××藩江戸家老みたいな身分が高い人)の屋敷に集まって、「おぬしも悪よのう」的な話をしているところに小柄(ナイフみたいな小刀)が飛んでくる。
「何者だ⁉︎」と障子を開けると、中庭に「般若」(初期には「翁」もあり)の面をつけた男が一人。
男は悪人たちの悪行を述べ、「許さん」とばかりに面をとって刀を抜く。
ラスボスは「く、曲者じゃ! 出会え出会えー!」と家来たちを呼ぶ。
さあ、そこからが一人舞台。桃太郎がバッサバッサと家来たちを斬りながら、有名な口上(?)を述べていく。
ひとーつ、人の世生き血をすすり
ふたーつ、不埒な悪行三昧
みぃーつ、醜い浮き世の鬼を、退治てくれよう桃太郎!
そしてラスボスを斬って一件落着。
だいたいいつもこのパターンで物語が終わる。
私はこれが大好きで、この口上を暗記して、真似して遊んでいた。(なかなか渋い子どもだ)
ところが大人になって考えると、この場面、なかなか理不尽なものがある。
桃太郎に斬られる名もなき家来たちがあまりにも気の毒なのだ。
家来たちが屋敷でそれぞれの仕事をしていると、主人の「曲者じゃ! 出会え!」という声が聞こえる。何事かと飛んでいくと、中庭に不審な男がいて、なんと抜刀しているではないか! これは主人の一大事! とこちらも刀を抜いて不審者に向かっていくが、あっさり斬られて……。
家来たちは下級武士だ。普段から主人に直接関わっているわけではない。主人の人となりなども、屋敷内の噂話で耳にするくらいではないかと思う。ましてや、主人がとんでもない悪党だなどとは思ってもみないのではないか。主人の悪事を知っているのは、ごく限られた側近だけだろう。
家来たちにしてみれば、純粋に主人の命を守るために不審者(桃太郎)に向かっていったのだ。武士の鑑、「忠義」である。それを無慈悲に叩っ斬るとは……。
ちなみに『桃太郎侍』は5年にわたって258話放送された(Wikipedia参照)。仮に1話につき(ラスボスを含め)15人斬ったとして、258話で3870人! もはや殺戮である。これじゃどっちが鬼だかわからない。
もちろん殺陣(たて)は時代劇の華なので、こういう演出はまあしょうがない。
たとえば里見浩太朗の『長七郎』シリーズなども同じパターンだったし、『大江戸捜査網』なんか3、4人がかりで斬りまくっていた。多くの時代劇が同じパターンで無数の下級武士を殺してきた。
これに対して、松平健の『暴れん坊将軍』は少し違っている。主人公の吉宗は刀を返して「峰打ち」(刀の刃のない方で斬る)にするのだ。だから家来たちは斬られても死なない。
ところが、吉宗の助太刀をする御庭番はそうはいかない。彼らの剣は実戦剣法だから「峰打ち」なんてぬるいことはできない。当然相手を殺すことになる。
つまり吉宗に斬られれば死なないが、不運にも御庭番に斬られれば死ぬのである。これもまた理不尽というほかない。
もっとも、吉宗はラスボスも自分では斬らず(例外あり)御庭番に「成敗」させるので、単に自分の手を血で汚したくない(立場上汚せない)だけなのかもしれないが。
いかがだったでしょうか。
要するに、下っ端はつらいよという話でした。