何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

冷蔵庫がある生活

 

川上卓也『貧乏という生き方』(WAVE出版、2010)という本を読んだ。(なぜそんな本を読んでいるかはお察しください)

その中に「ああ、憧れの無冷蔵庫生活」という一項があって、そこで著者は、節電・節約のために冷蔵庫のない生活を目指していろいろ工夫しているが、まだ完全には実現できていないと書いている。

そういえば、以前読んだ稲垣えみ子『寂しい生活』(なぜそんな……お察しください)にも節電のために冷蔵庫を使わない(捨てる)という話があって、こちらはすでに実践しているという。

 

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どうやら冷蔵庫というのは、家電の中でも節電・節約における最大の難関、ラスボス的存在らしい。

まあたしかにその通りで、例えば掃除機や洗濯機がなければ自分で手を動かせばいいのだが、冷蔵庫だとそうもいかない。単純に体を動かすだけでは冷蔵庫の役割を肩代わりすることはできない。

普段から節電や節約を心がけている人でも、冷蔵庫のコンセントを抜くことまではなかなか考えないと思う。

60年代には「三種の神器」と呼ばれて人々の憧れだった冷蔵庫も、現代の生活ではなくてはならない物、むしろあって当たり前の物になっている。

 

冷蔵庫で思い出す本といえば、魚柄仁之助『冷蔵庫で食品を腐らす日本人』朝日新書、2007)である。

 

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この本は現代の日本人の食生活全般の無駄や矛盾について指摘しているのだが、なんといってもタイトルが印象的だ。

 

 本来、衛生的かつ安全に食べられるように保存するための道具である冷凍冷蔵庫のはずなのだが、まさにブラックボックス化し、買いこんで傷みかかった食材をひっぱり出して、「早く食べちゃわなきゃ」と追われるようにして食べておりゃせんだろうか?(中略)食べきれないほど買いこみ、食べきれないほどたくさん調理し、今日も明日も残りものを食べ、しまいにゃ飽きるし、傷みもする。食糧難の時代でもあるまいし、まさにあさましいとしか言いようがない姿が、今日の日本にあるのです。(p.22)

 

もちろん魚柄さんは、だから冷蔵庫を使わない生活をしようと言っているわけではない。

冷蔵庫は生活を安全で便利に、豊かにするための補助的な「道具」だったのだが、その道具を過信するあまり、自分で考えたり工夫したりという主体的な「生活」がおざなりになっているのではないか、ということなのだ。

 

自分の生活にあわせて使うべき道具なのに、私たちはいつの間にか、道具に合わせた生活をしているのではないか?

これはもちろん冷蔵庫に限ったことではない。

私たちは道具からもう少し自分の手に「生活」を取り戻すべきなのかもしれない。