何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

歌を忘れたカナリアは……

 

マズい。ブログが書けなくなってる。

時間がないわけではない。むしろ余裕がある。

いわゆる「ネタ」がないわけでもない。書きかけて放置している下書きがいくつもある。

それなのにいざ書こうとすると指が重くなる。思うように言葉が出てこなくなる。ブログの書き方を忘れてしまったみたいに。

ふと「歌を忘れたカナリアは……」という言葉が脳裏をよぎる。カナリアみたいにかわいい生き物ではないのだが。

ブログを忘れたオッサンは……。

 

 

ところでこの「歌を忘れたカナリア」って何のフレーズだったっけ……と思って検索してみると、童謡「かなりや」の一節だった。作詞は西條八十

原詩である「かなりあ」は1918年(大正7年)に児童雑誌『赤い鳥』に発表されたもので、これに作曲家の成田為三が曲を付けて「かなりや」として翌年(1919年)楽譜とともに掲載。さらにその翌年(1920年)にはレコードになって、広く人々に親しまれた。(以下、引用は中央公論社刊《日本の詩歌》別巻『日本歌唱集』より)

 

 唄を忘れた金糸雀(かなりや)は 後の山に棄てましょか

 いえ いえ それはなりませぬ

 

 唄を忘れた金糸雀は 背戸(せど)の小藪に埋(い)けましょか

 いえ いえ それはなりませぬ

 

 唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか

 いえ いえ それはかわいそう

 

 唄を忘れた金糸雀

 象牙の船に 銀の櫂(かい)

 月夜の海に浮べれば

 忘れた唄をおもいだす

 

……なんというか、酷いこと考えるなあ。歌えなくなったというだけで、捨てるとか埋める(生埋め!?)とか鞭打つとか……。

そう言っているのは子どもで、「なりませぬ」「かわいそう」とたしなめているのが母親という設定らしいのだが、子どもは残酷なこと言う。

歌えなくなったカナリアはただの黄色いスズメというわけか。

最後の連の「象牙の船」や「銀の櫂」といった小道具がちょっとバタ臭い(死語?)ような気もするが、とりあえず歌を思い出せてよかった。

 

ちなみにこの詩のカナリアは作者自身の投影だと言われている。

当時の西條八十は生活を支えるために詩作から離れていた。最初の三連で、歌えなくなったカナリアを捨てようとか埋めようとか打とうとかいうのは、詩が書けないでいる自分自身の存在価値に対する疑問だろう。

しかし、「象牙の船」で「月夜の海」に漕ぎ出すことができれば、つまり環境を整えることができれば、きっとまた詩作はできる……ということなんじゃないかと思う。

 

さて、ブログを忘れかけているオッサンは、書く喜びを思い出すことができるだろうか。

まあ、書けなくなっても埋められはしないと思うけど。