何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

台風一過

 

どうにか台風をやり過ごした。 

今回の10号は接近前からその大きさ・強さが尋常ではないと言われていたので、基本のんきな私もちょっと心配だった。

と言いながら、これといった準備もしていない。せいぜい数年ぶりに雨戸を閉めたぐらいのものだ。

 

どうも私はこういう災害に対する危機感が鈍く、対策や準備というものができない。

だから台風上陸の2日前にスーパーからパンと水が消えたときにはあせった。

台風のための備蓄ではなく、ただ明日の朝食べるパンが欲しかったのだが。

すっからかんになった棚を見ると、なんだか寒々とした気持ちになった。

買いそびれた負け惜しみでいうわけではないが、なにもそんなにみんな一斉にパンばかり買わなくてもいいじゃないかと思う。

仕方がないので、かわりに4個入りのどら焼きを買って帰った。朝からどら焼きは重いけど。

ふと、あの有名な言葉を思い出す。

 

 「パンがなければお菓子を食べればいいのに」

 

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私が住んでいるところでは、台風による被害はほとんどなかったようでほっとした。

というか、前評判(?)の割にはそこまで風雨が強くなかったような気もする。むしろその前の9号の方が怖かったような。

ニュースによると、その9号の影響で海水面の温度が下がり、その結果10号の勢力が削がれたということらしい。結果オーライということか。

しかしそれでもやはり多くの人が被害を受けたわけだが。

 

私はこれまでの人生で、災害で大きな被害を受けたことがない。

3年前の豪雨災害のときも、同じ町内で多くの家が床上浸水したにもかかわらず、私の家はほとんど無傷だった。

立地とか、いろいろ理由はあるのだろうが、私はそれを単に「運」がいいからだと思っている。

しかし、仮に自分が被災した時、それをただ「不運」として受け入れられるかといえば、それは難しいような気がする。災害ばかりでなく、不意の事故や病気もそうだ。

「幸運」は喜んで受け入れるが「不運」は受け入れ難い。

 

なんでもかんでも「運」で済ますわけにはいかないが、それでも「運」とか「偶然」とか、人間にはどうすることもできないことは確かにあって、しかしそれを受け入れることは簡単ではないので、その「責任」を肩代わりさせるために〈神仏〉がつくられたのだろう。

 

なんだか余計なことを考えてしまったな。

これも台風の後遺症だろうか。

 

陋屋もいまだ潰れず野分あと