何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

「有意義な休日」について

 

休日の終わり、「ああ、今日もまた無駄な一日を過ごしてしまった」と軽く自己嫌悪に陥ることがよくある。

遅い時間に起きて、だらだらしていたらいつの間にか部屋が暗くなっていた、なんてことはしょっちゅうだ。

その度に休日をもっと有意義に使わなければと反省するのだが、次の休日もやっぱりだらだらしてしまい、部屋の灯りをつけながらため息をつく。

どうすれば「有意義な休日」が過ごせるのだろう。

 

そこで「有意義な休日、有意義な休日」と念仏のように唱えていたところ、逆にこう思うに至った。

実は「有意義な休日」というのは幻想ではないのか?

いや、誤解のないように言っておくと、私はなにも「有意義な休日」の存在自体を否定しているわけではない。私にだってごくごく稀に「今日は有意義な休日だったな」とか「充実した一日だった」と思われる日がないわけではない。しかしそれは本当に稀で、たいていの休日は最初に書いたように後悔のうちに終わるのだ。

だが実際のところ「有意義な休日」なんて月に一回、いや二ヶ月に一回あればいい方ではないのか。そんなに毎回毎回休日が有意義であるはずがないのだ。だらだらしていつの間にか終わっている休日の方が本当ではないのか。

 

f:id:paperwalker:20211210105716j:plain

 

ところが世の中を見渡すと「有意義な休日」や「充実した休日」ばかりが目につく。

たくさんの人が頼まれてもいないのにブログやSNSで有意義で充実した休日をアピールしている(ように見える)。家族とどこそこへ行って楽しかったとか、友だちとあれこれ食べておいしかったとか、とにかくみんなアクティブでいきいきしている(ように見える)。

そういうキラキラした(?)休日を見ると、薄暗い部屋の中で毛玉のついたジャージを着て呆けた顔でアニメなんかを見ている自分としては、「ああ、俺も有意義な休日を過ごさなければいけない」といわれのない焦燥を感じるのだ。

 

しかし、みんながみんな、いつもいつもそんな充実した休日ばかり過ごしているわけではないだろう。

今日オシャレなカフェに行ってオシャレなスイーツの画像をアップしたあの人も、いつもの休日には毛玉のついたジャージを着てのり塩味のポテチを食べているのかもしれない。

今日家族でテーマパークに行って楽しそうな画像をアップしたあの人だって、本当は家で毛玉のついたジャージを着てだらだらと韓流ドラマの続きを見たかったのかもしれない。

きっとそうなのだ。(そうであってほしい)

だから休日はだらだらしていいのだ。

これでいいのだ。

 

……というようなことを、全力で自分に言い聞かせている休日の夕方。