何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

自分の「おいしい」を探して

 

稲垣えみ子『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』(マガジンハウス、2017)を読んだ。

 

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帯には「準備は10分」とか「1食200円」などと書かれているので、時短料理や節約料理を紹介する本かと思ったら、それだけではなく、これは一つの「生き方」についての本でもあった。

 

著者は原発事故の節電をきっかけに冷蔵庫のない生活を始める。

すると料理がどんどん簡単になっていき、最終的に「飯・汁・漬物」を基本にした超シンプルな食生活にたどり着く。しかもこれがおいしくてまったく飽きず、毎日ご飯が待ちきれないという。

 

もともと料理が好きだった著者は、たくさんのレシピ本を読んで、さまざまな食材や調味料をそろえて手のこんだ料理を作っていた。いわゆるグルメ情報もせっせと集め、休日にはあちこちにおいしいものを食べに行っていた。

それが冷蔵庫なしの生活をするうちに、過剰な「おいしい」に疑問を持つようになる。 

珍しい味、美味しい味の向こう側には、さらに珍しい味、美味しい味の世界が尽きることなく広がっていく。

 その「過剰な世界」のことを私たちは「ごちそう」と呼んできたんじゃないでしょうか。そして多くの人が、食べ物ではなく、情報を食べている。本当に美味しいかどうかを感じることなく、美味しいと言われたものを食べることそのものに喜びを感じているんじゃないでしょうか。(p.50、下線は引用者による)

そしてレシピ本や多すぎる調味料、調理道具を手放し、前述の超シンプルな食生活に至る。

言わば食の断捨離、食のミニマリズムといったところか。

 

著者は「料理は自由への扉だ」と言う。

 だから自分で自分の人生を歩きたければ、誰もが料理をするべきなのである。男も、女も、子供も。自分で料理をする力を失ってはならない。それは自らの自由を投げ捨てる行為である。(p.268) 

「自由」は少しおおげさかもしれないが、自分が食べるものを自分で作れるというのは、自信や自立にはつながると思う。

料理は誰かが嫌々やらされる〈義務〉ではなく、一人ひとりの〈権利〉なのだ。

 

それでは著者の真似をして、超シンプルな食生活をすれば私たちも充実した生活を送ることができるのかといえば、必ずしもそうとは言えないだろう。それではグルメ情報を鵜呑みにするのと同じことだ。

著者はあくまで自分で自分の「おいしい」を探した結果、今の食生活にたどり着いた。

いろいろな意見を参考にしながらも、結局は自分自身で探さなければ意味がない。

 

それはもちろん「おいしい」に限ったことではなく、「うれしい」や「たのしい」や「おもしろい」についても言えることだ。

それを自分で探す人こそが生活を、人生を楽しむことができる。