何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

気分はもう老後

 

若い頃から「仙人になりたい」などと言うくらいだから隠遁願望が強い。

今はやむを得ず黄塵にまみれているが、老後は(経済的事情が許せば)あまり人と交わらず、世の中と交わらず、静かにひっそりと生きたい。

 

老後のスタイルはそれでいいとして(本当に?)、さて、それではいったいいつから老後なのか?

昔はもっとわかりやすかったのだと思う。

例えば会社員なら定年が目安になる。商家なら子どもに店を譲る。農家も子どもが中心になって仕事をするようになる。そうなると親の代はこれでお役御免となり、隠居して好きなことをしたり、子どもの仕事を手伝ったり、孫の世話をしたり。

しかし現代は事情が違う。

終身雇用は幻となり、たとえ定年まで勤め上げたとしても、経済的事情で次の仕事を探さなければならないかもしれない。子どもが親の仕事を継ぐことも当然ではなくなったし、そもそもが同居しない。そうなると隠居はもはや贅沢の部類である。

「生涯現役」というと多少聞こえはいいが、要するに動けなくなるまで働けということだ。どうやら世の中はそんなふうになっているらしい。

つまり老後というのはとても曖昧になっている。

 

だったら逆に、自分で勝手に老後を宣言してはどうだろう?

私はいま50歳だが、もう老後でもいいような気がしている。

30代だろうが40代だろうが、「俺、明日から老後なんで」と言って仕事と生活を整理縮小し、必要最低限のお金で生きていく。現実的にそうできるかどうかというより、気持ちの問題だ。

こんなことを言うと、「若いのにネガティブなことを言うな。もっと自分の人生を大切にしろ」と思われるかもしれない。

しかし私はなにも投げやりになっているわけではない。むしろ自分の人生を大切にしたいからこそ老後を宣言したい。

最近ときどき思うのだが、人間はもっと気楽に生きていいのではないか。そのためには「いま、老後を生きてる」ぐらいの感覚でちょうどいいような気がする。

というわけで、気分はもう老後。

 

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 今週のお題「理想の老後」