何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

負けることの可愛さ

 

ちょっとしたきっかけがあって田山幸憲『パチプロ日記 I  』白夜書房、1995 / 旧版1990)を読んだ。タイトルの通り田山さんはパチプロ、つまりパチンコで飯を食っている人だ。(2001年他界)

これはその田山さんの1990年(平成2年)の3月から5月までの三ヶ月間の日記である。

 

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1980年台に入って、パチンコには現在の主流である「セブン機デジパチ)」や「ハネ物」といった新しいギミックの機種が登場し、それにともなって人気が拡大していった。

これを機にパチンコ業界も、パチンコは誰でも気軽に楽しめる健全な娯楽であるというイメージを強調し、それにマスコミが拍車をかけるような形でパチンコが一種のブームになる。

テレビや雑誌に「パチプロ」という人たちが華々しく登場し、パチンコで稼いで高級外車を買っただの、マンションを買っただのという景気のいい話をして人々の射幸心をあおった。

 

そういう派手なパチプロに比べて、田山さんは圧倒的に地味である。

実際この日記を読んでみると毎日同じようなことの繰り返しで、これなら普通の会社員のほうがよほど変化のある生活をしているような気がしてくる。

毎日同じパチンコ店に朝10時の開店から入って、一通り釘を見て勝てる台を選んで打ち、遅くても午後3時ぐらいには切り上げて酒を飲む。

もちろん勝負事なので日によって波はあるけれど基本は同じである。(ちなみにこの時の田山さんは「ハネ物」と「一発台」ばかり打っていて「セブン機」はまったく打っていない)

パチンコに興味がない人は読んでも退屈するだろうし、そもそも意味がよくわからないかもしれない。

しかし私はこの日記を懐かしく読んだ。この1990年頃はちょうど私がパチンコを覚え始めた時期で、この中に出てくる「ビッグシューター」や「ローリングマシーン」といった機種は私も打ったことがある。もっとも、その後私は深みにはまっていろいろ困ったことになるので、少しばかり苦いノスタルジーではあるけれど。

 

この本には日記のほかに田山さんへのインタビューも収録されていて、実は日記の本文よりこっちのほうが興味深い。

田山さんは東大在学中にパチンコを覚え、そこからのめり込んで学校を辞めてパチプロになったというやや異色の経歴を持つ。それもあってか、自分がパチンコで飯を食っているということに対して複雑な感情を持っているようだ。テレビで得意げな顔をして自慢話をするパチプロとは違う。むしろその言葉には「含羞」がある。

 

そもそもパチプロなんていうのは、社会の裏側に住む日陰者なんだよ。(……)ましてパチプロなんて自ら進んでなりたがるものじゃあない。いい事なんて何ひとつないんだから。

(……)

それから、自分の職業を、胸を張って人に言えない。と言うか、パチプロは職業なんかじゃない。ただの怠け者なんだよ。パチプロを正当化しちゃいけない。(p.6)

 

その一方で、プロとしてのこだわりもある。パチンコで飯を食っている以上、勝たなければいけないのは当然だが、勝てばなんでもいいというわけでもない。

 

要は、銭だけが全てじゃないんだ。たとえそれで負けを喫することになっても、それはそれでいい。勝つことだけにこだわってる間は、一人前とは言えないんだよ。負けることの可愛さ、人間らしさを分かってほしいよね。(p.7-8 太字は引用者による)

 

たいていの人間が勝ちたい、負けたくないと思う世の中で、いったい誰が負けることを「可愛さ」とか「人間らしさ」という言葉で肯定するだろう。(そこにいくらかの諦めを含んでいたとしても)

ここには日本文学のお家芸(?)である「私小説」に通じるものがあるような気がする。

 

「負けることの可愛さ」か……。

若い頃の私には意味がわからなかったかもしれない。

五十を過ぎた今の私は、こんな言葉に胸がざわつく。