何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

複雑なギャップ

 

ときどきNHK-FMで『歌謡スクランブル』という番組を聴いている。

名前の通りたくさんの歌謡曲が流れてくる番組で、昭和の曲が多めなのがいい。

そういう昭和の歌謡曲を聴いて懐かしい気持ちになると、「ああ、俺はやっぱり昭和の人間なんだなあ」という気になる。

もっとも私は昭和44年生まれなので、リアルタイムで聞き覚えがあるのはせいぜい昭和50年代以降の曲である。

昭和30年代40年代の曲は、聞き覚えがあったとしてもそれは後付けの「知識」に過ぎないが、50年代の曲は「体験」であり「記憶」なのだ。

 

その『歌謡スクランブル』で、先日、研ナオコ特集が組まれていた。これがすごく良かった。改めて歌手としての研ナオコの素晴らしさを知った気がした。

特に中島みゆきが提供した楽曲がいい。研ナオコが移動中にたまたま聞いた「アザミ嬢のララバイ」に感動し、それで中島みゆきに曲を依頼したのが始まりだという。そこから「あばよ」や「かもめはかもめ」など多くの曲が生まれた。

中島みゆきが描く世界に研ナオコの声がとてもしっくりくる。

ラジオを聴いてからの数日間、私の頭の中ではずっと「あばよ」がリプレイされていた。

 


www.youtube.com

 

もっとも私の中で研ナオコといえば、歌手よりもコメディエンヌとしての印象の方が強い。志村けんとのコントよりも、子どもの頃に見ていた『カックラキン大放送』の印象である。(「ナオコおばあちゃんの縁側日記」とか)

当たり前かもしれないが、コントをやっている時と歌を歌っている時とではまるで別人である。そのギャップがすごい。

 

ギャップといえば、中島みゆきにも大きなギャップを感じたことがあった。

高校生の頃中島みゆきが好きで、なけなしの小遣いでレコードを買ったりしていたのだが、その中島みゆきが深夜ラジオの『オールナイトニッポン』をやっていると知ってさっそく聴いてみたのだ。

ラジオから聞こえてきたのは、はしゃいでいるといってもいいぐらい陽気な声だった。一瞬番組を間違えたのかと思ったが、それはやっぱり中島みゆきの声なのだった。

私は歌のイメージから、もっとこう、静かで落ち着いた口調を予想していたので、そのタガが外れたような明るさに戸惑った。ラジオの中の彼女は、私の中の「中島みゆき」とあまりにもかけ離れていたのだ。ちょっと裏切られたような気さえした。ずいぶん勝手な話である。

若い頃の私はそのギャップに納得できなかった。どっちが本当の中島みゆきなのか? わかりやすくどっちかにしてほしかった。

暗く繊細な女心を歌う中島みゆきと、リスナーのハガキを読んで馬鹿笑いしている中島みゆき。どちらも本当の中島みゆきであると、いまならそう思えるけれど。

 

中島みゆき研ナオコから楽曲を依頼された時、「あれだけ明るく人を笑わせることができるのだから、泣かせることもできるに違いない」と思ったそうだ。

人間は複雑だ。