何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

生きてるだけじゃダメかしら

 

今日も何もしない見事に無為な休日だった。

前にも書いたことだが、何もしなかった休日にはうっすらと後悔のような罪悪感のような気持ちが生まれる。あくまでも「うっすら」程度だけど。

 

しかし「何もしていない」と言ってもそれは言葉の綾で、やっぱり何かはしているわけだ。あるいは本当に何もしなかったとしても(屁理屈だが)最低限「生きること」はしたとも言える。

それでふと思うのだが、人間は生きて《何か》をしなければ満足できないのだろうか。ただ生きてるだけでは満足できないのだろうか。

いや「人間は」などと主語を大きくする必要はない。

私はただ生きてるだけでは満足できないのだろうか。

 

例えば人生の目的だとか、生きることの意味だとか、そういったことを考えず、ただ単純に(あるいは純粋に)生き物としていま・ここに生きていることに喜びや幸福や満足を感じるような、そんな生き方ができるだろうか。

例えば鳥や獣のように、あるいは草や木のように、全力でただ生きることができるだろうか。

できないだろうなあ。

いや、私は何も「自然に帰れ」などと言いたいわけではなく、生きることそれ自体に喜びを感じたいのである。

 

人間は(また主語が大きくなった)生きることにいろいろなものをくっつける。それが人間らしさというか、人間の人間たる所以なのかもしれないが、それがあまりに大きく複雑になりすぎると、生きること自体を圧迫し、生きる力を弱らせ、生きる喜びを感じにくくするのではないか。

生きること、生きていることそれ自体に喜びが感じられるくらいシンプルに力強く生きられないものか。

 

そんな抽象的で益体もないことを考えてしまう休日。

疲れているのかねぇ。