何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

葬式にはまだ慣れない

 

先日、親戚の葬式に行ってきた。

亡くなったのは私の父の姉にあたる人で、つまりは伯母である。93歳だった。

子どもの頃にはかわいがってもらった記憶があるが、私が大人になってからはほとんど会う機会がなかった。最後に会ったのは父の葬式の時だったか。

 

結び慣れないネクタイを結び、着慣れない礼服を着て、履き慣れない靴を履く。その時点でもう気持ちが落ち着かない。

時間に余裕を持って家を出たつもりだったが、葬儀場に着いた時にはすでに読経が始まっていた。近親者だけの式ということだったが、場内には40人ぐらいの人がいた。

一目見て一番偉いとわかるお坊さんと、アシスタント(?)的なお坊さんが2人いた。お経はメインのお坊さんに他の二人が和するような形で、3人で読んでいた。アシスタントの2人はその他に「木魚」や「りん」、それからシンバルみたいな音がする仏具(「妙鉢」という名前らしい)も担当している。(不謹慎だが)なんだかバンドみたいだなと思う。

 

 

読経の途中で通路を挟んだ反対側の席を見ると、小学生ぐらいの男の子と女の子が、退屈なのか落ち着かないのか、そわそわもぞもぞと体を動かしている。

まあ無理もない。あのくらいの歳の子どもに、神妙な顔でじっとしていろと言う方が無理というものだ。50を過ぎたオッサンでも落ち着かないのだから。

こういう状況でじっとしていられるようになることが、大人になるということなのか。

 

ふと、自分はこれまでの人生で何回葬式に出ただろうと思う。身内と他人の分を合わせても10回もないのではないか。

そして、これからの人生であと何回葬式に出ることになるだろうと思う。たぶんこれからのほうが多くなるはずだ。回数を重ねていけばだんだん葬式慣れしていくのだろうか。

 

正直なところ、私には葬式というものがいまひとつよくわからない。

それが死者のためというよりは生者のためのものであり、遺された者が気持ちの整理をつけるために必要な儀式だというのはわかる。

しかしそういう気持ちの問題と、目の前で行われている一連の儀式がどうもうまく結びつかない。

 

私には妻子はいないし、友人知人もほとんどいないから、そういう意味では「遺される者」というほどのものはない。

私自身も、自分が死んだ後のことなどどうでもいい。さすがに自分の遺体を自分で始末することはできないので、そこは誰かの手を煩わせなければならないが、それだけやってもらえれば充分だ。

だから私に葬式はいらない。

……と、いま現在の自分、50代で大きな病気もない自分は思っているけれど、もっと歳をとって、死がよりリアルに感じられるようになってきたらどうだろう。

やっぱり寂しくなって、誰かに弔ってもらいたいと思うかもしれない。

それはその時になってみないとわからない。