何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

本の世界がもっと広がる

 

はてな」の今週のお題が「#もしも英語が使えたら」ということなのだが、具体的に英語が使えるというのはどういうことかと考えてみると、私にとってそれは「英語が読める」ということとほとんど同義なのである。

そのほかの「話す・聞く・書く」といった能力はどうでもいい。まあ、実際の英語学習は総合的にやらなければならないのだろうけど、私の場合は「読む」特化型でもかまわない。

それで文学を中心に英語の本を読みまくる。日本語の未読の本でさえ山と積まれているのにどこにそんな時間があるのか、などという現実的で無粋な問題は考えないようにしよう。

 

 

一般に日本は翻訳大国と言われていて、わりとマイナーな作家や作品でも翻訳されることがあるけれど、それでもやっぱり未訳のものはたくさんある。また、本国ではけっこうメジャーでも、なぜかあまり翻訳の機会に恵まれなかった作家もいる。

一度翻訳されたことがある作品でも、いまではなかなか手に入りにくくなったものもある。

そういう日本語では読めない(読みにくい)作品を探して英語で読んでみたい。

逆に、何種類も翻訳がある英米の名作を英語(原語)で読んでみるのもいい。

 

英語の本が読めるということは、イギリスやアメリカの文学が読めるというだけでなく、日本ではあまり馴染みのないカナダやオーストラリアなどの英語圏」の文学が読めるということでもある。これで文学の世界がぐっと広がる。

さらに日本語には翻訳されていないが英語には翻訳されている「非英語圏」の文学というのもある。英語を媒介にして、そういう「非英語圏」の文学を読むこともできる。文学の世界がもっともっと広がっていく。

そんなことを考えると楽しくなってくる。

 

言葉は人と人をつなぐものだけど、英語には異なる言語を話す人たちをつなぐ力がある。

なんだかちょっと偉そうで、癪にさわるところもあるけれど、そういう英語の力は認めないわけにはいかないし、その力を利用しない手はない。

いや、まあ、「使えたら」の話なんだけど……。

 

#もしも英語が使えたら