何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

世界のひきこもりとひきこもりの世界

 

ぼそっと池井多『世界のひきこもり』寿郎社、2020)という本を読んだ。

副題は「地下茎コスモポリタニズムの出現」で、これはインターネットによって世界各地のひきこもり当事者が(外からは見えない)交流をしているという意味だ。

 

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著者は大学卒業を前に「ひきこもり」状態になり、それから30年以上(形を変えながら)ひきこもっているという。

1962年生まれというから、私より7歳年上か。

 

インターネットを使って世界のひきこもり事情を探索していた著者は、世界のいろいろな国にひきこもり当事者がいることを確認し、それをきっかけにネット上に「世界ひきこもり機構」(Global Hikikomori Organization、通称GHO)を立ち上げる。

そうした活動を通じて行った世界のひきこもり当事者(元ひきこもりや支援者も含む)たちとの対話が本書の骨子である。

 

ひきこもりはなんとなく日本に特有の問題のような気がしていたけれど、この本を読むと必ずしもそういうわけではないことがわかる。

フランスやアメリカといった欧米は想像できるが、この本ではインド・フィリピン・バングラデシュといったアジアや、アルゼンチン・パナマ中南米、さらにはアフリカのカメルーンにいたるまで、世界各地のひきこもり(元ひきこもり)の人たちが紹介されている。

その国の(経済的に)中流層の家庭の人が多いように思えるが、これも一概には言えないらしい。

つまりひきこもりは特定の文化や経済状況の中で生まれるものではなく、もっと普遍性のある問題だということである。

 

しかし一口にひきこもりといってもその置かれている状況はさまざまである。

例えば家族との関係にしても、険悪な人もいれば比較的良好な人もいる。

また、ひきこもりというと自分の部屋からほとんど出ない(出られない)人をイメージしてしまうが、これも人によって違いがあるようで、著者も(条件付きだと思うが)まったく外出できないわけではないようだ。

そうなると「ひきこもり」といわゆる「普通の人」と、どの辺りで線引きができるのかと思ってしまうが、そうした線引きあるいはひきこもりの定義は不可能であり、それにこだわるのは不毛だと著者はいう。白か黒かではっきり区別できるものではなく、その間には多様なグラデーションがあるのである。

 

ひきこもりという現状に対する考え方も人それぞれである。

自分は社会の中で無価値な人間だという強い自己否定に苛(さいな)まれている人もいれば、逆に「外の世界」の人間はくだらないから交わる必要はないという人もいる。

たぶん多くのひきこもりの人は、この自己否定と他者(外の世界)の否定の間で揺れているのではないだろうか。

著者はまず自分自身がひきこもりであるという現状を認めて、それを否定するのではなく、肯定的に考えてみようという。

自己を否定するにせよ、他者を否定するにせよ、否定だけではなにも生まれないのである。

 

ところで、私がこの本に興味を持ったのは、自分自身がいつひきこもりになってもおかしくないような気がしているからだ。

いまは毎日仕事に行っているし、スーパーや本屋になら普通に行くけれど、それ以外ではほとんど家を出ない。できるだけ人に会わないように生活している。出不精というにしてもちょっと度が過ぎているのではないかと、自分でも思っている。(もちろんコロナの前から)

もし何かのきっかけで仕事をやめるようなことにでもなれば、そのままひきこもってしまうのではないかという気がするのだ。

その時のためにというわけではないけれど、もう少しひきこもりという問題について知っておきたいと思う。