何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

「読む」と「インプット」

 

最近よく目にするようになったなと思う言葉に「インプット/アウトプット」というのがある。

もともとはコンピュータ関係の言葉で「入力/出力」という意味だったはずだが、それが人間にも使われるようになって、知識や情報を得ることを「インプット」、表現したり発信したりすることを「アウトプット」というようになっている。

私はどうもこの言葉が苦手というか、あまり好きになれない。

とりわけ本を読むことを「インプット」と表現しているのを見ると違和感を覚える。これは小説などのフィクションだけでなく、ビジネス書や自己啓発本などを読むことに対してもそうだ。

 

私の感覚では、「読む」と「インプット」とでは言葉から受ける感じがかなり違う。

「読む」ことを「インプット」と言ってしまうと、「読む」という言葉が含む(あるいは「読む」という言葉に付随する)いわく言いがたい雑多なあれこれがごっそり削ぎ落とされてしまうような気がする。

別の言い方をすれば、「インプット」という言葉から感じるのは「無駄のない合理性」であり、そこには「読む」ことが持っている「無駄」や「不合理」がない。(そういう点では「速読」に似ている)そして「読む」ことが持っているはずの「喜び」や「楽しみ」も欠けているように感じるのだ。

「書く」ことと「アウトプット」も似たようなものである。

(あくまで個人の感覚です)

 

うーん、なんだか屁理屈を言っているような気がしてきた。

ほかの人から見れば、そんなことはどっちだっていいのかもしれない。

こだわっているわけではないのだが、しかしまあ、例えるなら私にとって「読む」と「インプット」とでは「食事」「点滴」ぐらいの違いがあるということなのだ。

 

私は飯を食うように本を読みたい。