何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

「草とり」

 

ぼんやりラジオを聴いていると、徳冨蘆花「草とり」という随筆の朗読があった。

気になって調べると、「青空文庫」に入っていたのであらためて読んでみる。(以下、引用は青空文庫版。ただし、仮名遣いや表記は適宜変更した)

 

 六、七、八、九の月は、農家は草と合戦(かっせん)である。(中略)二宮尊徳の所謂「天道すべての物を生ず。裁制補導は人間の道」で、ここに人間と草の戦闘が開かるるのである。

 

自然は自然のままにいろいろな物を生じさせるが、人間はそれをうまくコントロールしなければならない。

田畑の雑草もそうで、自然のままに放っておくと作物が良く成長しない。だから絶えず雑草を取り除く必要がある。

たかが草取りと馬鹿にしてはいけない。 これも立派な「自然との闘い」なのである。

 

蘆花は後年、「美的百姓」と称して自らも田畑を作る半農生活をした。

「美的百姓」というのは、趣味的というか、アマチュアの農業者といった意味だろうか。

自分でも農作業をするので、上の文章にも実感がこもっている。

 

私も田んぼを持っているが、自分では農業をせずに人に貸している。

だから田んぼのことを心配する必要はないが、家の雑草は自分でなんとかしなければならない。

しかし、いままでにもさんざん書いてきたように、私はこの雑草の始末をサボってばかりいるので、夏場の我が家はえらいことになっている。知らない人が見たら廃墟と思うような有り様だ。

 

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(注)画像はイメージです。ウチではありません。
 

でもなあ……実際、草取り(草刈り)という作業は虚しくなってしまうのだ。

取っても刈っても、次から次へと草はどんどん生えてくる。まったくキリがない。「賽の河原」「シーシュポスの岩」か、これは人に与えられた罰なのではないか? それならいっそのこと自然に任せて、何もせずに草が枯れ果てる冬を待ったほうがいいのではないかと思ってしまう。

しかし、それでも人は草を取らねばならぬ、と蘆花は言う。

 

 そこでまた勇気を振起(ふりおこ)して草をとる。一本また一本。一本除(と)れば一本減るのだ。草の種は限なくとも、とっただけは草が減るのだ。手には畑の草をとりつつ、心に心田(しんでん)の草をとる。心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕(われら)の心も草だらけである。四囲(あたり)の社会も草だらけである。(中略)然しうっちゃっておけば、我儕は草に埋もれて了(しま)う。そこで草を除る。己(わ)が為に草を除るのだ。生命の為に草を除るのだ。 〔太字は引用者による〕

 

うーん、わかったような、わからないような……。

心の雑草というのは、人生に対する「怠惰」や「自堕落」、「投げやり」や「いいかげん」といった態度のことを言っているのだろうか。

畑の雑草も、心の雑草も、野放図に伸び放題にしておくとやがて人間を呑み込んでしまう。だからこまめに草取りをして、秩序や規律をつくらなければならない……ということか。

こう言われると、草取りも一種の精神性を帯びてきて、何かの修行のように思えなくもない。

 

たとえ徒労であったとしても、草は取らねばならぬ、人生は真面目に生きねばならぬ。

そういうことなのかねえ……。

 

今週のお題「サボる」