何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

蓄財について

 

本多静六『私の財産告白』実業之日本社文庫、2013 / 実業之日本社、1950)という本を読んでいる。

 

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著書は林学(森林や林業に関する学問)の学者なのだが、その本業以上に投資家として、また蓄財術に関する本の著者として知られた人だ。

この本も、著者の実際の経験に基いて、いかに財産を築くか(築いたか)を語ったものである。

 

こういうのはともすれば「成功者」のただの自慢話と思われやすい。とくに日本人は正面からお金の話をするのを嫌う傾向がある。

しかも学者が蓄財の話をするというのは、一般的なイメージに合わないかもしれない。学者はお金などに頓着せず、ひたすら学問に没頭するもので、むしろ「清貧」の方が似つかわしいというのが学者のイメージではないだろうか。

もちろん著者もその辺のことは十分に承知しているが、それでもはっきりとお金の話をする。

 

(……)財産や金銭についての真実は、世渡りの真実を語るに必要欠くべからざるもので、最も大切なこの点をぼんやりさせておいて、いわゆる処世の要訣を説こうとするなぞは、およそ矛盾もはなはだしい。(p.11、下線は原文傍点)

 

では、本書にどのような蓄財の方法が書かれているかというと、これがいたって当たり前の方法なのである。

具体的には、まず月収(手取り)の4分の1をあらかじめ貯金して、残りの4分の3で生活すること。臨時収入はすべて貯金。徹底して倹約すること。そうして「勤倹貯蓄」し、それを原資として堅実な投資をすることーーといった具合だ。

なにか特別な方法や、効率的な蓄財術を期待した読者は肩すかしを食うかもしれない。しかし蓄財に近道を期待してはいけない。

 

 金儲けを甘くみてはいけない。真の金儲けはただ、徐々に、堅実に、急がず、休まず、自己の本職本業を守って努力を積み重ねていくほか、別にこれぞという名策名案はないのであって、手ッ取り早く成功せんとするものは、また手ッ取り早く失敗してしまう。(p.112)

 

当たり前のことを地味に、堅実に、長期間実行し続けることは難しい。強い意志と工夫が必要だ。

これが書かれたのはいまから半世紀以上も昔のことなので、現代には当てはまらないことも多々ある。しかし、その根幹をなす考え方は現代でも有効だと思う。(だから復刊されるわけだが)

この本の主題は単なる蓄財術ではなく、お金を中心にした人生論なのである。

 

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さて、ここから先は個人的なこと。

私は貯金や倹約(節約)に対しては興味もあるし、自分なりに実践もしているつもりだけれど、投資というものにはちょっと抵抗があっていまだにやったことがない。

その抵抗というのは、リスクに対する不安とかではなく、なんというか、利子や配当といったものに対する疑念のようなものだ。

人間は実際の労働に見合った対価を得ればそれでいいのであって、(年金などは別にして)いわゆる不労所得を期待するのはあさましいのではないか、というナイーブな(?)労働観が心のどこかにあるのだと思う。

こんなことを言うと「この資本主義の世の中で、なに寝言を言っているのか?」と笑われるかもしれない。いや、私自身もそう思う。

これは主義や思想といったたいそうなものではなくて、ただの「気分」である。お金に対するある種の「潔癖」と言えるかもしれない。

しかし、そうは言っても現実的にお金の不安はあるわけだし、少しでも積極的にお金を増やすことを考えるべきではないのかと、いまさらながらに思ったりしている。

さて、どうしたものか。

とりあえず簡単そうな「つみたてNISA」でも考えてみようかなあ。