何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

本に書き込む

 

久しぶりに「ヤフオク」で古い本を買った。

吉田絃二郎『わが旅の記』第一書房、1938)。昭和13年の本だ。

 

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(画像はパラフィン付きの状態)
 

著者の吉田絃二郎は、戦前にはよく読まれていた作家だが、戦後はあまり読まれず、現在では(失礼ながら)忘れられた作家と言っていいと思う。

私も名前は知っていたが読んだことはなかった。

この本は、その吉田絃二郎の紀行文を集めた本……らしい。「らしい」というのはもちろんまだ読んでいないからで、パラパラっとめくっただけに過ぎない。

しかし読んだ部分もある。それは元の所有者の「書き込み」だ。

 

古本が好きな人なら経験があると思うが、買った本に書き込みを見つけた時のあの落胆をどう表現すればいいのか。

この時の反応は、たぶん、本の「値段」と書き込みの「量」によって違ってくる。

安く買った本に数行の書き込みなら「チッ」と舌打ちするだけで済むが、高価な本にたくさんの書き込みを見つけたときは絶望的な気持ちになる。

今回私が買った本はいつもながらの安い本(送料込みでもワンコイン)だったのだが、書き込みの量というか面積が問題だった。「見返し」の「遊び」の1ページまるまる、大きめの字で11行にわたって鉛筆による書き込みがあったのだ。

これはどうしたものか、と思った。これが高価な本なら返品するところだが、安い本だし、本文ページには書き込みはない。結局「まあ、いいか」ということで落ち着いた。

 

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(右が見返しの書き込み。左は著者の口絵写真。苦行僧のような渋い顔をしている)
 

長くなって申し訳ないが、いままでの話は「前置き」です。

「まあ、いいか」と思って、一応その書き込みを読んでみた。するとこれがなかなかいい文章だったのだ。(旧字は適宜改めた。□は読めなかった文字)

 

昭和十三年□月五日、東京への旅の車窓によまむとて求む。

往きの夜行にはにぎやかなりし子らの、かへりは一通のつかれに、はや東京を発つより、ひとりひとりふかき眠りにおちいりて、□□トンネルを去るころはめざめているもの我ひとりなり。

しづかに車窓にうつれるわが旅やつれの顔をみれば、まことに「ただ一人なる旅人」のすがたなり。この時始めて深き旅の哀しみ胸にみつ。

よき旅のおもひでも、かくて一人一人の胸の奥永に忘れ去らるべし。かくてかのなつかしき旅の記憶を刻むもの、つひにわれひとりのみとなるべきか。

    ひとりしづかふたりしづかも霧のおく

  昭和十三年十月十一日未明 東京よりかへるさの車中にて

 

東京へ子どもたちを連れての旅行の帰り、この旅人氏はもの思いにふける。

行きの夜行でははしゃいでいた子どもたちも、いまは隣ですやすやと眠っている。この子たちは、この旅行のことを大人になっても覚えているだろうか?

ふと、自分も、この子たちも、一人一人が自分の人生を旅する旅人なのだと思う。

旅の時間を誰かと「共有する」ことはできる。しかし旅そのものを共有しているわけではない。同じ道を歩いていても、人それぞれの旅がある。

大切な家族がいる。良き友もいる。決して一人で生きているわけではない。しかし、それでも、根本的なところで人は一人なのだ……と、旅人氏は思った、かもしれない。

 

夜汽車の中で、そんなことを本の見返しに走り書きする旅人氏。

その個人的な文章を80年後に読んで、無名の旅人氏のことを思う私。

交わるはずのない人生が交わる不思議。