何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

ツバキの花が咲きました

 

うちの荒れた庭にツバキの木があって、白と赤、二色の花を咲かせている。

こちらは白。

 

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こちらは赤。

 

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赤といっても真っ赤ではなく、ちょっとピンクっぽい赤だ。

偏見かもしれないが、こういうピンクっぽい赤は、日本人よりも中国人の方が好みそうな気がする。中国の時代劇(?)なんかで、女性がよくこういう色合いの服を着ているようなイメージがある。

この二本の木、もつれるように植えられていて、離れて見ると、上段が赤、下段が白の一本の木のように見える。まさか自然にこうなったとは思えないので、こういう植え方があるのだろう。

 

今年になって初めてツバキが咲いているのを意識した。

もちろんこの木は今年急に生えてきたわけではない。たぶん、かなり昔に、父が知り合いにでも頼んで植えてもらったのだろう。花だって毎年咲いていたはずだ。

私も毎年その花を目にしていたはずだ。しかし、目にしていても、見てはいなかった。視界に入っていても、それと意識していなければ自分の中では存在しないのと同じだ。

それを意識するようになったのは、たぶんブログを始めたからだと思う。記事のネタになりそうなことを探すため、身の周りのことに少しだけ注意深くなったような気がする。ブログの効用と言っていい。

世の中にはそういうことがたくさんある。たしかに存在しているけれど(自分の中では)存在しない人、物、事。そういうことを少しずつ自分にとっての「存在」に変えていくことが、書くことであり、また読むことなのかもしれない。

 

それはともかく、関心を持ったからといってきちんと手入れをするようになったわけではない。そこはまあ、不精者なので、あいかわらず放置状態のままだ。

それなのにこうして律儀に花を咲かせて、私の目を楽しませてくれている。そう思うとなんとなく申し訳ないような気もする。

しかし、もしツバキが言葉を話せたら、こんなふうに言うかもしれないな。

 

勘違いしないでください。

私はなにも人間(あなた)のために花を咲かせているわけではありません。

思い上がってはいけない。

私が花を咲かせるのは、ただ《時》を心得ているから。

ただそれだけのこと。