何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

背負い背負われ

 

       たはむれに母を背負ひて

  そのあまり軽きに泣きて

  三歩あゆまず

             (石川啄木

 

 

一度だけ自分の父親をおんぶしたことがある。

 

父は月に一度、町の診療所に薬をもらいに行っていた。以前は自分で車を運転して行ったのだが、免許を自主返納してからはタクシーを使っていた。ある時期からは私もそれに同行するようになった。父の足取りが少々覚束なくなってきたからだ。

ある日、いつものように診療所から帰ってきた私たちは、家の100メートルほど手前でタクシーを降りた。

実は家に至る道の最後の100メートルほどがとても狭くなっていて、軽や小型車なら大丈夫だが、普通の乗用車ではかなり運転が難しいのだった。慣れている人なら別だが、そうでなければ運転のプロでもけっこう厳しい。だから私たちは、タクシーを使うときはいつもそのその細い道の手前で降りて、後は歩くことにしていた。

ところがタクシーを降りたとたん、雨粒が落ちてきた。その日は朝から晴れていたので、私たちは傘の用意をしていなかった。

雨粒が大きい。一気に激しく降る雨のようだ。自分一人ならなんてことはないのだが、杖をつきながらよろよろと歩く父の足に合わせていては、ひどく濡れるかもしれない。年寄りのことだから、風邪でもひけばそれが深刻なことにならないとも限らない。

三つ四つと顔に雨粒が当たり、いまにも大降りになろうかというとき、私は父を背負って走り出した。(「三歩あゆまず」どころではない)

痩せ細ってはいても大人一人を背負って走るのはたいへんで、玄関に着いた時には息が荒くなっていた。やがて雨音が強くなり、土砂降りになった。

 

話としてはそれだけのことだ。特別な思い出でもなんでもない。

ただ後になって、父を背負ったのは(覚えている限り)後にも先にもあの一度きりだったな、と思ったのだ。

そして一方で、自分が幼い頃には、父母をはじめいろいろな大人に背負われたのだろうと思った。

 

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正直なところ、私はあまり子どもが好きではない。しかし、大人の背中に背負われている子どもを見ると、なんというか、安心感ようなものを覚え、少し暖かい気持ちになる。

ひとつには、自分自身の失われた時間に対するノスタルジーなのだろう。

もうひとつは、そこに完全な信頼関係を感じるからかもしれない。人間の体でもっとも無防備な背中。その背中に自分の全体重を、全存在を投げ出して預ける子どもと、それをしっかりと受け止めている大人。その構図が、人間の完全な信頼関係を体現している、といったらおおげさに過ぎるだろうか?

背負われていた子どもは、やがて長じて親になり、またその子どもを背負うのだろう。

 

この先、私はたぶん誰を背負うこともなく、誰かに背負われることもないだろう。そう思うと、少しだけ寂しい。