何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

星の光のように

 

先日、藤原定家によって筆写された『源氏物語』の一帖(若紫)の写本が新たに発見された、というニュースがあった。今から800年ほど前のものだという。

  

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私は『源氏物語』に詳しいわけではないが、これがすごいことだというのはわかる。

源氏物語』自体は平安中期(今から1000年ほど前)の成立だが、その頃の写本は現存していない。だからこの定家のものが現存するものとしては最古のものらしい。

昔は印刷技術というものがないので、書物を複製しようと思ったら手で書き写すしかない。そうやって一つ一つ人の手で連綿とコピーされてきたものが、江戸時代に入ってようやく印刷によって多くの人の手にわたるようになる。そして近代になって活字による印刷が行われるようになると、さらに広汎に、そして安価に流通するようになった。

こうして現代の私たちは簡単に『源氏物語』を読むことができるわけだ。

私たちにとってこの環境は当たり前のものなので、それを特になんとも思わないけれど、よくよく考えたらこれはすごいことではないか。

1000年前に書かれた言葉が私たちに届いているのだ。(筆写の過程でいろいろな人の手が加わって、完全に紫式部のオリジナルではないとしても)

私たちはこのことにもっと驚いていい。

 

ふと、星の光のようだと思う。 

すべての星の光はその距離によって到達時間が違う。4、5年ほどで地球に到達するものもあれば、何万年というものもある。すでに星自体が消滅しているものもあるかもしれない。

夜空にはたくさんの星が輝いているけれど、その光はそれぞれの時間と空間を超えて《いま・ここ》にいる私たちに届いているのだ。

書物に書かれた言葉も同じようなものだと思う。書架にはたくさんの本が並んでいるけれど、その言葉は100年なり1000年なり、それぞれの到達時間を経て《いま・ここ》にいる私たちに届いたものなのだ。

一冊の本は一つの星であり、書架はさながら星空のようだ……。

 

さて、『源氏物語』に話を戻すと、私は実は現代語訳も完読していない。(さんざん知ったふうなことを書いておいて……)

与謝野晶子谷崎潤一郎の訳をそれぞれ手に取ってみたけれど、どちらも途中で落っこちてしまった。それでも「あらすじ」をだいたい知っているのは、大和和紀あさきゆめみし』読んだからだ。漫画はありがたい。

しかし、せっかくこんな記事を書いたのだから、これを機にもう一度完読に挑戦してみようかと思う。それも現代語訳ではなく、原文で読んでみたい。(もちろん詳細な注釈と現代語訳が付いている本で)

いまは10月半ば……まあ、今年はもう遅いから(?)来年の目標ということで……。

(その前に、『あさきゆめみし』を再読しなければ)

 

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