何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

心頭滅却

 

「残暑を乗り切る」ということだけれど、こういう時に中高年はよく心頭滅却すれば火もまた涼し」などとなぜか得意げに言って若者に疎まれる。

しかしこの「心頭滅却」、そう簡単にできるものではない。

 

心頭滅却」とは、わかりやすく言えば、心や頭の中を無、もしくは空っぽにすることだが、これが難しい。

マネゴトでも座禅や瞑想をしたことがある人ならわかると思うが、私たちの心や頭というのはさまざまなノイズ(雑念)でいっぱいになっている。

普段私たちが意識しているのはその中のごく一部に過ぎない。

20世紀の文学の方法で「意識の流れ」というのがあるが、これはこうしたとりとめのないノイズをできるだけ言語化して表出しようとした試みといえる。

 

座って、目を閉じて(あるいは半眼で)、深く息をする。

しかし、雑念を払って「無になれ、無になれ」と思っても無になることはできない。

雑念はどこからともなく限りなくわいてくるし、そもそも「無になれ」という意識自体が雑念みたいなものだ。

そこでまずは自分の呼吸を意識する。

瞑想や座禅では、まず呼吸を意識し、それに集中することを説くものが多い。理由はいろいろあると思うが、一つには呼吸に意識を集中することで、それ以外の雑念を消すことにあると思われる。

そして最終的には呼吸の意識も消し去って無になる。

まあ、こう書けば簡単に思えるが、それができれば修行はいらない。

だから実際には「心頭滅却すれば」ではなく「心頭滅却できれば」なのであり、できる人はまずいない。ただのやせ我慢とは違うのだ。

中高年は安易にこの言葉を使わないように。(自戒を含む)

 

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で、結局残暑はどう乗り切るのか?

……普通に冷房

 

 今週のお題「残暑を乗り切る」