何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

言葉のゆくえ

 

もう一編、寺山修司詩集』(ハルキ文庫、2003)から。(以下、全文)

 

 

    ひとりぼっちがたまらなかったら

 

私が忘れた歌を

誰かが思い出して歌うだろう

私が捨てた言葉は

きっと誰かが生かして使うのだ

 

だから私は

いつまでも一人ではない

そう言いきかせながら

一日じゅう   沖のかもめを見ていた日もあった

 

 

この詩を読んで、私は自分のブログのことを考える。

このブログに書いた言葉は、別に「捨てた」わけではないけれど、「誰かが生かして使」ってくれるだろうか?

もちろんそれは記事を引用してくれとか、記事を役に立ててくれとかいうことではない。(自慢じゃないが、人の役に立つ記事など書けやしない)

 

例えば……私は夢想する。

私のブログを読んでくれた彼(もしくは彼女)がいたとして、私の言葉は彼/彼女に咀嚼され、嚥下され、消化され、そのほとんどは「忘却」という形で排泄されるかもしれないが、その中のごくごく一部が(もはや原形さえとどめていないけれど)彼/彼女に吸収されて、同化して、彼/彼女自身も意識できないレベルでその言葉に、心に、魂に溶け込むことができたなら、そのとき私は彼/彼女の一部になることができるのだ。

うん、ちょっと気持ち悪いかな。しかし、他者が書いた言葉を読むということは、こういうことではないだろうか。

 

私はいつもひとりだけれど、私の言葉は誰かとともにある。

私はいつもひとりだけれど、誰かの言葉が私とともにある。

そう言いきかせながら(近くに海がないので)軒のつばめを見ています。

 

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