今週のお題「家で飲む」
私の家の水は井戸水だ。
もちろん今は電動式のポンプで水を汲み上げているが、私が子どもの頃はどうだったか、記憶が少し曖昧だ。
今の家は私が7歳の時に建て替えたものだが、それ以前はひょっとしたら手動式のポンプだったかもしれない。
ともかく、私は日常的にその井戸水を飲んできた。
大学に進学するために実家を出て、ある地方都市で生活するようになるのだが、水に関していえば、そこは恵まれた環境だった。
地下水が豊富にあって、水道水にも基本的にそれが使用されていた。だから蛇口から出る水をそのまま飲んでもまずくなかった。
私は大学を卒業してからもけっこう長くその街に住んでいたのだが、いつの頃からか、その地下水の涸渇問題がときどきニュースにのぼるようになった。今のところ大丈夫だが、このままいけばいずれ涸渇するという、まあ、当たり前の話だった。
私は「へえ」と思うだけで、別段危機感など覚えなかった。たいていの人はそうだったと思う。
今、私はまた実家にいて、井戸水を使っている。
で、何が言いたいかといえば、私は「水を買う」習慣がなかった、ということだ。
ネットでざっと調べたところでは、日本で広く一般にミネラルウォーターが普及し始めたのは、1983年の『六甲のおいしい水』(ハウス食品)の発売あたりかららしい。
当初は紙パックで売られていたが、規制緩和で加熱殺菌が不要になったことから、現在のようにペットボトルで売られるようになった。
その後他のメーカーが参入したり、輸入品が入ってきたりして、ペットボトルの水の消費量は右肩上がりに増えてきて現在に至る。つまりそれだけ多くの人が水を買って飲むようになってきたということだ。
「水と安全がタダだったのは昔のこと」などという言葉もよく耳にするようになった。まるでそれが人間の進歩にともなう当然の結果のように。
ただ、前に書いた通り、私自身は水を買うという習慣はなかった。
ところが、ひと月ほど前のこと、家のポンプが壊れて蛇口から水が出なくなってしまったのだ。
さすがにこれには慌てた。ネットを見て適当な業者を探して電話をしたのだが、間が悪かったり手違いがあったりで、結局4、5日は水の出ない生活を強いられた。
その間は当然水を買ってきてやり過ごさなければならない。
飲み水はもちろんだが、風呂にも入れないので、薬缶で湯を沸かして体を拭いたりした。(友だちの家や近所の家で風呂を借りればいいのでは、と思うかもしれないが、残念ながら私にはそんなフレンドリーな交際はない)
2リットルのペットボトルをいったい何本買っただろう。
現在はもちろん復旧して(新しいポンプと交換して手痛い出費になったけど)何も問題はないのだが、ひとつだけ変わったことがある。
ペットボトルの水を買うのが習慣になってしまったのだ。
コーヒーやお茶をいれたり、料理に使ったりするのはいままで通り井戸水だ。しかし、純粋に「水」として飲むときにはペットボトルのミネラルウォーターを飲んでいる。
井戸の水が劣化したわけではないし、そういう区別に何の意味があるのか、自分でも理解できないのだが、なんとなくそうしたい。単純に気分の問題としか言いようがない。
と同時に、ペットボトルの水を買うことに、ほんのちょっとだけ、うしろめたさのようなものを感じることにも気づいた。
何不自由なく水が使えるのに、あえて水を買うことがお金と資源(ペットボトルの原料も含めて)の無駄だという意識だろう。
だったら買わなければいいのだが、そこまで気にしているわけでもない。
なんだかずいぶんふわふわした言い方だが、買うにしても、買わないにしても、ちょっとした気分の問題なのだ。
だが案外こういうちょっとした気分の積み重ねが、世の中を良くしたり悪くしたりするのかもしれないな、と思いつつ、今日も水を買っている。