何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

ときどき「帰宅部」が羨ましくなった

 

私は中学・高校と吹奏楽部に所属していた。担当はチューバという一番大きな金管楽器である。

 

最近はどうなっているのか知らないが、私が中学生の頃(40年ぐらい前)は、生徒は必ず何かの部に入っていなければならなかった。部活をしないという選択肢はなかった。

しかも当時の私の(田舎の)中学校では、部活=運動部みたいなところがあって、運動が苦手な私は選択に困った。とりあえず一番楽そうに見えた卓球部に体験入部したものの、一日で根をあげる始末だった。

それで仕方なく入ったのが吹奏楽部だったのである。

実のところ、取り立てて音楽に興味があったわけではないのだが、他に続けられそうな部活がなかったのだ。

 

 

高校で吹奏楽部に入ったのも似たような事情だったのだが、そこには中学時代の先輩もいたので、誘われるままに入部した。(一応)経験者という事で歓迎された。

吹奏楽部はもちろん文化系の部活だが、雰囲気としては体育会系みたいなところがあって、先輩後輩のけじめが厳しく、練習もハードだった。

最初はそういう体育会系のノリが苦手だったけれど、意外にもそのうち馴染んでしまった。

それに、もともとはたいした興味もなく始めた楽器でも、長くやっているとそれなりに向上心みたいなものが出てくる。つまりは上手くなりたかったのだ。

そんなこんなで私はけっこう熱心に部活に打ち込んだ。充実した日々だったと言ってもいい。

 

しかしいくら充実しているといっても、毎日毎日、来る日も来る日も同じような練習をしていると、何かの拍子にフッと虚しくなることがある。

なんで俺はこんなことしてるんだろう。俺の高校生活は部活だけで終わってしまうのか……。

放課後、練習をしている教室の窓から外を見ると、帰宅している生徒たちの姿が見える。一人でさっさと帰っている人もいれば、友だちと楽しげに帰っている人もいる。彼らはこの後何をして過ごすのだろう。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。彼らは自由だ。

なんだかなあ……。

ただでさえ重い楽器がよけいに重く感じられる。

 

それはあくまでも一過性の気分なのだけど、ときどきそんなふうに「帰宅部」の人たちが羨ましくなった。

実際には「帰宅部」の人でも、いやいやながら塾に通ったり、手持ち無沙汰に時間を潰したり、帰宅しても楽しい時間を過ごせるとは限らなかったはずだ。

私だって、早い時間に家に帰っても、ダラダラとテレビを見るだけだっただろう。それはわかっているのだが……まあ、ないものねだりというか、「隣の芝生は青く見える」というやつだ。

ふう、とひとつ息をついて、窓の外からまた譜面に視線を戻す。

 

そんなふうに揺れたり、迷ったり、焦ったりもしたけれど、結局3年の最後の「定期演奏会」までやりきった。

いまとなってはいい思い出だ。

 

今週のお題「わたし○○部でした」

 

 

風前の灯火

 

気がついたら2週間もブログを更新していなかった。

もちろんこの場合の「気がついたら」というのは言葉の綾で、本当は「そろそろ更新しないと……でもなんだか気が乗らないなあ……もうちょっといいか……」という感じで、ずるずると先送りにしていたのだった。

11月に入って仕事は確かに忙しくなっている(というよりしんどくなっている)のだが、ブログを書く時間がまったくないというほどではない。それなのに手が止まっている。

 

やっぱり8月に「夏休み」と称して1ヶ月更新しなかったのがよくなかったのかもしれない。一度ペースが乱れてしまうと、元に戻すのはなかなか難しい。

しかしそういう習慣の問題ではなくて、もっと根本的なことなのかもしれないとも思う。

 

ブログに飽きてしまったのかな、と思う。

どんなに楽しいことでも人間は慣れてしまうのであり、つまりは飽きてしまう。好きで始めた事でも、いつかそういう時がくる。

もともと私は飽きっぽい人間なので、逆にブログが3年以上続いたことのほうがおかしいともいえる。

あるいは、私は自分で思っていたほど「書かずにはいられない」タイプの人間ではなかったということなのかもしれない。

他の人のブログを読んでいると、確かにそんな感じの人がいる。「書かずにはいられない」から書いている、というのはちょっとかっこいいし、自分もそうなのかもしれないと思っていた。

しかしどうやら私はそこまでの人間ではないようだ。書きたい気持ちはあるけれど、書かないなら書かないでもいい、といった程度の人間らしい。そう自覚することはちょっと残念というか、寂しいような気もするけれど。

 

ふと「風前の灯火」という言葉が頭をよぎる。

もともと零細ブログではあるのだが、いよいよここで燃え尽きてしまうのか……。

 

 

なんてね。

 

確かに私はブログに飽きてきたのかもしれないが、飽きたからやめるというのはいささか早計だと思う。

というのも、「飽きる」というのは一つの合図かもしれないと思うからだ。

いままでやってきたことが一段落したというか、一つのステージが終了したことを告げる合図であり、同時に次のステージが始まる予兆のような。

飽きた時点でやめてしまえばそれっきりだが、そこから(惰性でもなんでもいいから)さらに続けていれば、それまでとは違う楽しみが生まれ、新しい風景が開けることもあるのではないか。「飽きる」の先になにかあるのではないか。そんなことを期待してしまう。

いや、なんにもないかもしれないけれど、でももしかしたら……。

物事は飽きたら終わりではなく、むしろ飽きたところから始まるぐらいに考えておいたほうがいい。

 

そんなわけで、このブログ、風前の灯火ではあるのだけれど、その小さい火をしぶとく灯し続けたい。

 

 

『うる星やつら』の昭和感

 

今期のアニメで楽しみにしていたものの一つにうる星やつらがある。

小学館創業100周年記念という鳴り物入りでの再アニメ化である。

 

 

率直な感想は、(良くも悪くも)早くて軽いという感じ。

原作の一話を10分余りでまとめていて(30分で二話ずつ放送)、そのためテンポが早い。ちょっと早すぎるような気もするが、原作は基本的に一話完結なので、このくらいの長さ(短さ)でいいのかもしれない。

絵も旧作より明るくポップな感じだ。(ラムちゃんも旧作よりかわいい)

ただなんとなく雑な感じがしなくもない。

まあ、まだ2回しか見ていないし、主要なキャラクターも出揃っていないので、もう少し様子を見たい。(なんか偉そうですいません)

 

それから、作品の出来不出来とは関係なく感じたのは、これはやっぱり「昭和」の作品なんだなということである。

例えば下の画像を見ていただきたい。

 

 

これは主人公の諸星あたるがガールフレンドのしのぶに電話をしている場面なのだが、この昭和感がなんともいえない。

まず目につくのがダイヤル式の黒電話である。しかもカバーまで付いている。

生まれた時から携帯電話があった世代はこの時点で違和感を感じるかもしれない。

話の都合上、一階にある電話を二階の自分の部屋に引っ張ってきているのだが(そんなにコードが長いはずがない)、昔は家族の共有スペースで周囲に気を配りながら電話をしていたものだ。

それから机の前の壁にはペナント。(三角形のやつね)

念のために説明すると、ペナントというのは三角形の布に刺繍などを施した旗状の記念品である。観光名所の土産物屋などで売っていて、旅行の記念に自分で買ったり、お土産でもらったりした。

机の上の手動の鉛筆削りやアームの長い電気スタンドは今もあるかな。それから窓の左下にある円筒形のものは、たぶんスチール製のゴミ箱だろう。

この他のカットではファンシーケース(ハンガーラックの周囲にビニール製の覆いをつけた簡易家具)も見えた。

こういう小物がいちいち昭和を感じさせる。

 

うる星やつら』の漫画連載は昭和53年(1978)から昭和62年(1987)まで9年にわたる。(旧作アニメの放送は昭和56年(1981)から昭和61年(1986)まで)[注]

これは私の9歳から18歳までにあたり、要するにほとんど10代である。そりゃあ懐かしくもなる。

もっとも当時の私は『ジャンプ』系の漫画しか読んでなくて、ほとんどアニメでしか知らなかったけれど。

 

そもそも今回の再アニメ化を喜んでいるのは、(私も含めて)旧作のアニメを見たり原作の漫画を読んだりして、すでに『うる星やつら』を知っている世代の人がほとんどではないだろうか。

そういう世代を狙っての再アニメ化なのかもしれないが、今回初めて『うる星やつら』の世界に触れるような若い人たちは、この作品を見てどういう感想を持つだろう。ちょっと聞いてみたい気もする。

 

それにしても10代の頃の私は、50歳を過ぎた自分がいまだに漫画やアニメを見ているなんてーーなんなら当時よりも熱心に見ているなんて、思ってもいなかっただろうなあ。

スマンね、昔の私よ。

こんな大人になっちゃって。

 

[注]本格的な週刊連載は昭和55年から。それまでは作者が学生だったため不定期連載だった。

 

 

自転車にはもう乗れない

 

休日の午後、今日も今日とてブックオフへ。

昨日の雨のせいか、空気がひんやりしている。ひと雨ごとに寒くなっていくようだ。

パーカーを一枚よけいに着てきてよかった。これからまた原付には厳しい季節になっていく。

 

交差点で信号待ちをしている時、何気なく道を行き交う自転車を眺める。

いまさらながら、いろんな人が自転車に乗ってるなあと思う。制服の高校生、お洒落な若者、あまりお洒落ではない若者、買い物帰りの女性、少し危なっかしいおじいさん、などなど。

ふと、最後に自転車に乗ったのはいつだったか? と思う。

 

 

私が車の免許を取ったのは18歳の夏である。

大学に入って最初の夏休み、1ヶ月ほど帰省している間に地元の自動車学校で講習を受けた。当時は地元に帰った時に免許を取る同級生が多かった。(その後地元の自動車学校はなくなってしまった)

大学のある街に帰ってすぐに原付を買った。(正確には親に買ってもらった)

それから30年以上、ずっと原付が生活の「足」である。自転車にはほとんど乗っていない。

 

いつから自転車に乗り始めたのか、はっきりとは覚えていない。

最初はもちろん子供用の補助輪付きのやつだった。小学校の低学年の頃に、家の前の細い道で、父親と一緒に補助輪なしで乗れるように練習した。建設現場と農業という二つの重労働で毎日疲れていただろうに、あの頃は父親がいろんなことにつきあってくれた。すっかり忘れていたけれど。

中学校は田舎らしくヘルメット付きの自転車通学だったし、高校の時は最寄りのバス停までの短い距離を自転車で通った。自転車は生活に欠かせないものだった。

そして、上に書いたように、大学に入って自転車を卒業した。

 

今もときどき自転車を買おうかと思うことがある。

原付がパンクしたり故障した時の保険というか、「第二の足」として一台持っていた方がいいような気もする。実際にそういう困った状況になったことも一度や二度ではない。

しかし、現実的に考えるとちょっと躊躇してしまう。

安い買い物ではないということもあるけれど、「乗れるかな?」という疑問というか、不安があるのだ。

原付に乗っているのだから同じだろう、と思う人もいるかもしれないが、いやいや、そう簡単にはいかない。

何が不安といって、あのタイヤの細さがなあ……。みんなよくあんな細いタイヤでバランスが取れるものだ。ちょっとした段差でもすぐにバランスを崩して転びそうに思える。あれで人や車にぶつからずに走れる自信がない。怖い。昔は普通に乗れたのに。

乗ってる人は笑うかもしれないが、自転車に乗れるというのはけっこうすごいスキルなのではないだろうか。

 

葦原大介ワールドトリガー』2巻より)

 

もう自転車には乗れないかもしれないなあ。

 

 

ムカデはムカデ

 

寝ている時にムカデに頭を咬まれた。

 

夜中にふと目が覚めて妙な違和感があるなと思ったら、頭に鋭い痛みを感じて跳ね起きた。

灯りをつけて枕を見ると、ああ、やっぱり、12、3センチぐらいの黒々としたムカデが乗っかっている。

半ばパニック状態で台所に殺虫剤とハエ叩きを取りに行ったが、布団に戻るとムカデの姿は消えていた。さあたいへんだ。布団をひっくり返したり、物をあっちこっちに移動させたり、大捜索が始まった。これがゴキブリだったら「チッ」と舌打ちして終わりだが、ムカデは放置しておけない。安心して眠れない。

 

20分ほど探してようやく見つけ、まず殺虫剤を噴きかけた上で、ハエ叩きで打つべし! 打つべし! 打つべし! ムカデは生半可な打撃では死なない。

動かなくなったところで窓の外に捨て、風呂場に行って咬まれた所を水で洗い、虫刺されの薬を塗った。(薬を塗る前に毒を洗い流すのが大事)

痛みのせいでなかなか寝付けなかったが、朝起きた時にはいくらか違和感が残る程度になっていた。

まったく、今年はすでに三回ムカデに咬まれている。しかもそのうちの二回は頭である。坊主頭だから咬みやすいのだろうか。それとも美味そうに見えるのか。

 

(可愛く描いてもムカデはムカデ)

 

もっともムカデはほとんど目が見えないらしい。

ムカデの感覚器官でもっとも重要なのは触覚で、これで対象を認識している。そして動くものはとりあえず咬むのである。

「ナイフみたいにとがっ」た顎肢で「触るものみな傷つけ」るという、まるで「ギザギザハート」みたいな奴なのだ。(たしかに見た目はギザギザっぽい)

 

そんな厄介者・嫌われ者のムカデだが、人間の役に立っているところもある。ゴキブリなど、他の害虫を捕食してくれるのだ。

それはありがたいけれど、しかし人間を咬むことを考えると、やっぱり厄介者であることに変わりはない。

ではもし仮に、ムカデが絶対に人間を咬まない生き物だったら好感が持てるかというと、それもちょっと難しい。

こう言ってはナンだが、あの見た目ではなあ。どう見たって外見は悪役である。「人は見た目が9割」なんて本があったけど、虫も見た目が9割かもしれない。(あまり他人のことは言えないけれど)

 

ムカデはムカデ

蝶々や セミ

ましてやカブトには なれない

 

しかしそれでいいのだ。

人間に嫌われたって、ムカデはムカデとして、ムカデの生をまっとうすればそれでいいのである。

私の前に出てきたら殺すけどね。

 

(害虫といえば、この本がおもしろかった)

paperwalker.hatenablog.com

 

 

ルパン三世 VS キャッツ・アイ

 

ネットをうろうろしていたら、こんなニュースを見つけた。

 

nlab.itmedia.co.jp

 

なんとAmazon Original でルパン三世キャッツ・アイのコラボ映画が作られるらしい。

これは私ぐらいの年代のアニメ好き・漫画好きにはたまらない豪華な組み合わせだ。

 

 

いまの若い人たちが『キャッツ・アイ』と聞いてピンとくるかどうかは知らないが、この漫画の連載が『ジャンプ』で始まった時は衝撃的だった。(連載は1981~84、アニメは1983~85)

とにかく絵が違う。当時の少年漫画の絵ではない。まーオシャレというかスタイリッシュというか、泥臭さがぜんぜんない。当時の『ジャンプ』では(いい意味で)浮いていた。(唯一近い感じがしたのは『コブラ』だろうか)

少年漫画で主人公が女性(少女ではなく大人の女性)というのも珍しかったと思うが、その職業(?)が泥棒で、仕事の時はレオタードを着用するというのがなんとも……。(当時はエアロビクスが流行っていた)

ストーリーもアクションあり、恋愛ありで、中学生だった私は夢中になって読んだものだ。

また杏里が歌ったアニメの主題歌は、アニソンであるにもかかわらずオリコンや歌番組で1位になって話題になった。

あれから40年か……。

 

(最初のジャンプ・コミックス版)

 

ルパンは以前コナン君とも共演しているし、今度のコラボも期待しているのだが、心配なのがキャラクターデザインで、両者の絵の雰囲気はだいぶ違うような気がする。そこはうまく擦り合わせるのだと思うが、変な方向に行かなければいいなあ。

それにしても、こういう作品の枠を越えた(ついでに大人の事情も越えた)共演というのはワクワクする。昔で言えば『ゴジラガメラ』とか。

 

この映画が好評だったら、次は『ルパン三世 VS シティーハンター』なんてことになるかもしれない。それもおもしろそう。

もっともルパンとリョウ(*)なら、敵対するより意気投合するかもしれないな。

どっちも女好きだし。

  *リョウは〈けものへん〉+「尞」

 

 

本も二度目なら、少しは上手に……

 

この頃20代や30代の時に読んだ小説を読み返すことが多くなってきた。

私の旧式の脳が新しいものを受け入れられなくなっているのかもしれない。

しかし再読には初読にない楽しみもある。初読は新しい友人を得るようなものだが、再読は疎遠になっていた旧友に再会するようなものだ。そこでは今と昔と、二重の時間が流れる。

 

最近再読した本に、京極夏彦『姑獲鳥(うぶめ)の夏』講談社文庫版、1998 / 講談社ノベルス版、1994)がある。

 

 

刊行は1994年だが、リアルタイムで読んだのではなく、3、4年後に読んだような気がする。

その時はすでにこの古本屋にして神主、さらに陰陽師でもある京極堂を主人公にしたシリーズが3冊ぐらい出ていたと思う。どれも煉瓦のように分厚い本だったが、当時は無職でブラブラしていた時期なので時間は腐るほどあった。

夢中で読んで、その衒学的な小説世界に圧倒されたのを覚えている。

 

当時も今も、私はあまりミステリーを読まないので、トリックがどうこうといった批評がましいことは言えないのだが、そんなミステリー素人の私でさえ、この作品で使われているトリックは反則というか、掟破りなのではないかと思った。

そもそもこれをトリックと言っていいのかどうか。

いや、人間の知覚や認識の「盲点」を突くのがトリックというものなら、これはやっぱりトリックなのか。

あるいはトリックを無効化するアンチトリックとか?

何を言っているのか自分でもわからなくなってきた。ぜんぜん感想になってない。

とにかくこんな物騒な(?)小説がデビュー作というのだから、恐れ入谷の鬼子母神である。(作中に出てくるのは雑司ヶ谷鬼子母神だが)

 

ところで、物語の本筋とはまったく関係ないのだが、作品の冒頭で「京極堂」がこんなことを言っている。(前回読んだ時には気づかなかった)

 

だがね君ーー面白い、面白くないという君の尺度にもよるが、だいたいこの世に面白くない本などはない。どんな本でも面白いのだ。だから読んだことがない本は大抵面白いが、一度読んだ本はそれより少し面白がるのに手間がかかるという、ただそれだけのことだ。(文庫版、p.15、太字は引用者による)

 

「この世に面白くない本などはない」とは、本好きなら一度は言ってみたい言葉ではないだろうか。私はまだまだ精進が足りないので、そういう境地(?)には遠いけれど。

 

一般的にミステリーは再読に向かないと言われている。最初に読んだ時点で犯人やトリックが明かされる、つまりネタバレしてしまっているからだ。

しかしそんなことはない。物語を追うことだけが読むことではない。

忘れていたことを思い出したり、前回気にならなかった細部が気になったり、気づかなかった意味に気づいたり、少しばかり「面白がるのに手間がかかる」かもしれないが、再読は初読とは違った読書体験になるはずだ。

 

うん、さすが「京極堂」、いいことを言う。

もっともこの後、だからどれでもいいから店にある本を買え、という話になるのだが。