何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

図書館という避難所

 

前回紹介した『税金で買った本』(ずいの / 系山冏)という漫画の帯には「読むと図書館に行きたくなる!」という惹句が書いてあったのだが、これは本当にそうで、私も久しぶりに図書館に行きたくなった。

考えてみればもう3、4年ぐらい図書館に行っていない。いつの間にかすっかり疎遠になってしまった。

昔はほとんど図書館に入り浸っていたのに。

 

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昔、仕事もしないでぶらぶらしていた頃は、ほとんど毎日のように図書館に通っていた。(いま住んでいるところの話ではないけど)

アパートの狭い部屋でテレビばかり見ていても気が滅入るし、タダで時間が潰せる場所としては図書館か、ブックオフで漫画の立ち読みぐらいしかなかったのだ。

当時の私はまだ30歳前後だったが、平日の図書館には意外なほど中高年男性が多かった。

新聞や雑誌を読んでいる彼らは、何か目的があって図書館に来ているというのではなく、私と同じように時間を持て余しているように見えた。みんながみんな無職の暇人というわけではなかったのだろうが、彼らにはなんとなく共通の「手持ち無沙汰」感みたいなものがあったような気がする。もちろん私にも。

 

あるいは当時の私や彼らにとって、図書館とは一種の「避難所」だったのかもしれない。何から逃げているのかは、人それぞれだろうけど。

もちろん本を楽しみたい、本で学びたいという積極的な理由で図書館を訪れるのが本当だと思うけれど、なんとなく行き場を失ったような気がする時、少し心を休ませたい時、図書館に行くのもいいんじゃないかと思う。

まあ、図書館にとってはあまりありがたくない利用者なのかもしれないが。

 

冒頭で書いたように、最近の私はすっかり図書館と疎遠になっている。

具体的な理由としては、仕事が忙しくて疲れているので図書館まで行くのがしんどいというのが大きいのだが、もっと抽象的な理由としては、図書館を「避難所」にする必要がなくなったということなのかもしれない。

もっともそれは何かから逃げる必要がなくなったということではなく、逃げる場所や逃げ方が変わったということなのだけれど。

いまは図書館を「避難所」としてではなく、純粋に「楽しむ場所」として使いたい。

 

いや、こんな辛気くさい話をするつもりではなかった。

本当は読書生活における書店(古書店)と図書館の役割分担みたいな建設的なことを考えたかったのだが……。

まあ、それはまたいずれ。

 

 

税金で買った本

 

前回の記事でおもしろいタイトルの漫画を買ったと書いたけれど、それがこちら。

ずいの / 系山冏(けいやま・けい)『税金で買った本』講談社、2021)[既刊2巻]

 

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「税金で買った本」というのは図書館の本のことで、これはつまり図書館漫画なのである。

 

主人公の石平くんはいわゆるヤンキーの高校生。

気になることがあって小学生の時以来久しぶりに図書館を訪れたのだが、ひょんなことからそこでバイトをすることになる。

なんだかんだと文句を言いながらも、個性的な職員たちに囲まれて図書館という場所に馴染んでいく石平くん。第2巻では図書館漫画の定番イベント(?)の「読み聞かせ」もこなす。

「お仕事漫画」でもあるので図書館員のいろいろな仕事が描かれていて、図書館の裏側を知りたいという人にはおすすめ。(原作のずいのさんは実際に図書館勤務の経験があるらしい)

 

石平くんは気になったことをそのまま放置できないタイプである。「知りたい」という強い気持ちを持っているし、また「知ること」の楽しさや喜びも知っている。

でも他人からそう指摘されると否定する。素直じゃない。

しかしヤンキーの友達から、おまえは図書館にいるようなやつじゃないと言われた時にはこんなふうに言ってのける。

 

  俺はバカのくせに知らないこと知るのが楽しくてしょーがねーし?

  図書館でお勉強すんのが好きなんだよ!(第2巻)

 

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多少は「天邪鬼」的な気分もあるのかもしれないが、本当はそういうことなのだ。(自分で言って照れてるけど)

そしてそういう「知りたい」気持ちを応援してくれるのが図書館であり、図書館員なのである。

石平くん自身がそういう図書館員として成長していくのか、どうか。

たのしみな漫画がまたひとつ増えた。

 

 

大型書店で右往左往

 

先日、あんまり天気が良かったので、半日かけてブックオフをハシゴ。

そこそこまあまあの買い物をした帰り道、最後の〆とばかりにショッピングモールに入っている大型新刊書店に寄った。

その書店に行くのはたぶん一年ぶりぐらいなのだが、いろいろ変わっているところがあって少しとまどってしまった。

 

レイアウトが変わっているのはいいとして、全体的に店の規模が縮小されているようだった。そのせいか、いわゆる「売れ筋」の本ばかりが並んでいるような印象を受ける。

大型書店の魅力として、小さな出版社の本やマニアックな専門書などを実際に手に取って見ることができるという点があると思うけれど、店の規模が小さくなるとまずそういうところから削られていくような気がする。

モールの中の店ということで、ほかの店との兼ね合いとかモール全体の方針とか、いろいろあるんだろうなと思う。

 

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気を取り直して文庫棚を見ていく。

ここの文庫棚は(一部を除いて)出版社別ではなく、完全に作家別になっている。

私がいつも行っている(といっても最近は2、3か月に一度ぐらいだが)別の大型書店は普通に出版社別なので、少しとまどう。

しかし、いまなにげなく「普通に」と書いたけれど、実際は出版社や文庫のレーベルを気にしている人の方が少数派で、そんなことはどうでもいいというのが普通なのかもしれない。

完全に作家別の方が親切で合理的のような気もする。私は出版社別の方が好きだけど。

 

そこから漫画の棚に移動。

探している漫画があったのだが見つからなかった。あまり売れてなさそうな漫画なので(失礼)これはまあ、しょうがないか。

そのかわり、おもしろそうなタイトルの漫画を発見する。ぜんぜん知らない漫画だけれど、カバーに書かれている説明を読んで、勘にまかせて購入する。

リアル書店ではときどきこういうことがあるからおもしろい。

それからざっと雑誌を眺めてレジへ。

 

この日一番の驚きはここに待っていた。

レジが「セルフレジ」になっていたのだ。書店のレジがセルフレジ……。

考えてみれば驚くようなことではない。レジのセルフ化は世の中の流れであり、書店だけが例外ということはありえない。

しかし私の頭の中ではまったくその発想がなかったので、完全に意表をつかれた。無意識のうちに書店という場所は特別なところだと思っていたのかもしれない。

店員さんがお客さん一人一人に説明していたので、最近設置されたのではないかと思う。ひょっとしたら私が知らないだけで、都市部の大型書店ではセルフレジが当たり前になっているのだろうか……。

機械の説明に従ってなんとか精算を済ませる。

店を出る頃にはもう日が暮れかかっていた。

 

久しぶりの大型書店でなんだか右往左往してしまったが、書店ではそんな時間も楽しい。

 

【付記】家に帰ってネットで調べると、書店のセルフレジは数年前からあったけれど、(コロナの影響もあって)昨年あたりから設置する店舗が増えてきたようだ。知らなかった……。

 

 

夢のない夢の話

 

最近頻繁に仕事の夢を見る。もちろんいい夢ではない。

絶対時間内に終わらないような大量の仕事に追われている夢や、理由もわからず誰かに怒られている夢など、夢らしくシュールなところもあるけれど、その焦燥感や理不尽は生々しく感じられる。やっぱりストレスなのだろうか。

なにも夢の中でまで仕事をすることはないのだが、こればっかりは自分ではどうにもならない。

 

と、そんなことを考えていたら、昔読んだオカルト関係の本に夢をコントロールする方法を書いたものがあったのを思い出した。

具体的なことはまったく覚えていないが、訓練によって自分の見たい夢が自在に見られるようになるという話だったと思う。

そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、まあ、《ムー・ブックス》の本だったので……。

 

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しかしもし本当に夢をコントロールできるようになったら、どんな夢が見たいだろうか。

ちょっと考えてみたけれど、あまりコレといったアイデアが浮かばない。

大金持ちになって豪遊とか、美女をはべらせてハーレムとか、そんな月並みで俗物丸出しのことを考えてしまう自分が悲しい。

夢というのは普段自分が思いつかないようなイメージが出てくるところがおもしろいのであって、自分で考えるのならただの想像に過ぎない。だからこそ夢は作家や芸術家に創作のヒントを与えることができる。

人間には自分ではどうにもならない部分があるからこそおもしろいということなのかもしれない。

 

それにいい夢ばかりを見るというのも考えものだ。

あまり夢の内容が良すぎると、目が覚めた時に現実とのギャップが大きくてガッカリしてしまう。

いい夢やおもしろい夢を見た後に「夢だったのか……」と落胆するのがいいのか、それとも、悪い夢や怖い夢を見た後に「夢だったのか……」と安堵する方がいいのか。

 

胡蝶の夢」ではないけれど、いま存在している「私」も、私が現実だと認識している「この世界」も実は《何か》が見ている夢なのかもしれない。

だとしたら、その《何か》は目覚めた時に「私」と「この世界」という夢をどう思うだろう。

けっこういい夢だったと思うだろうか、それとも酷い夢だと思うだろうか。

退屈な夢だったと思うかもしれない。

あるいは夢を見たことさえ覚えていなくて、ただ一夜のうちに消えてなくなるだけの世界かもしれない。

 

 

和文タイプライター

 

いつものように「ヤフオク」を散策していてこんなものを買った。

『実用邦文タイプライター教科書』(龍成社)

「邦文タイプライター能率研究社」というところが編纂した100ページ余りの薄い本で、たぶん昭和26、7年ごろに出版されたものだ。

前半の30ページで邦文タイプライターの構造や使い方が説明されていて、残りのページは実習用の例文が(簡単なものから難易度の高いものへ順に)掲載されている。

 

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邦文タイプライター、あるいは和文タイプライターといっても、若い人には何のことかわからないかもしれない。いや、私だって実物を見たことがあったかどうか。

しかし80年代に日本語ワープロが登場するまでは、公式な文書はこの和文タイプライターを使って作られていたのだ。

 

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(初期の和文タイプライター

 

和文(邦文)タイプライターは1915年(大正4年)、杉本京太によって発明された。(それ以前にも別の方式で特許は取られていたが、広く実用化できたのは杉本のものが最初)

下部の「箱」のようなものに入っているのは活字で、使用頻度によって一級文字、二級文字、三級文字、予備文字に分けられている。全部合わせると標準タイプでも3000字ほどになる。

上部の機械と下部の文字盤を動かして一字一字活字を探し、レバーを押してその活字を拾い、同時にシリンダーに巻き付けた紙に印字(縦書き)していくのである。

日本語で使用する文字は膨大なためこういう方式が採用された。欧文タイプのように文章を考えながら打つようなものではなく、あくまで清書のための機械である。

この教科書によると、一分間に35文字以上打てなければ一人前とは言えないようだ。

 

しかしそう説明されても、具体的にどういう構造で、実際にどう動くのかが想像できない。

何かいい資料はないかとYouTubeで「和文タイプライター」を検索してみると、いくつかの動画が見つかった。なんでもあるな、YouTube

その中に和文タイプライターの構造をCGを使って説明している優れものの動画があった。

 


www.youtube.com

 

これをみるとどういう構造になっているのかよくわかる。

また次の動画は1930年(昭和5年)に行われた和文タイプライターのコンテストの様子を映した記録映像(着色・補正)である。(なぜか屋外で開催されている)

 


www.youtube.com

 

当時は女性の職業が限られていたので、和文タイピストになりたいという女性は多かった。タイピストを養成するための専門の女学校まであったという。

それだけ技術の熟練を要する機械でもあった。

 

……という文章を、私はいま、タブレットのタッチパネルをポチポチ打ちながら書いている。もちろん特別な技術は必要ない。

和文タイプライターの発明から100年余り、書くための機械もずいぶん進化したものだ。

もっとも和文タイプライター自体も独自に進化していたので、昭和後期のモデルなどは初期のものに比べてずいぶん使いやすそうに見える。あのまま独自進化を続けていたら、ガラケーみたいに「ガラタイ」とか言われたのかもしれないなあ。

 

さて、この文章を読んだ人のなかで、実際に和文タイプライターを使ったことがある人が何人いるだろうか?

 

 

書く楽しみ、読まれる喜び

 

3月17日でブログを開設して丸3年になった。

おめでとう、私。よくがんばったな、私。

……しかし、なぜだろう、いまひとつテンションが上がらない。

 

ブログを始めた人の9割ぐらいが1年と経たずにやめていくといわれる中で、記事数は少ないけれど、曲がりなりにも3年続けられたというのはちょっと自慢してもいいことのような気がするのだが、このテンションの低さはなんだろう。

1周年の時はかなり嬉しかったし、2周年の時もまあまあ嬉しかったのだが、3周年の今回は「まあ、こんなもんか」みたいな感じになっている。

 

それだけブログを書くことが当たり前のことになったということなのだろうか。一応ブログが軌道に乗った、安定したのだとも考えられる。

そうかもしれない。しかしそれとは少し違うような気もする。

それにブログを書くことが「当たり前のこと」になるのもいいことなのか、どうか。書くことに慣れすぎてしまうのも、どうなんだろう。

 

 

ブログを書いていると、子どもの頃にプラモデルを作っていたことを思い出す。

そんなに頻繁に作っていたわけではないけれど、ときどき作りたくなって、親に頼んで何かのついでに車で街に買いに連れて行ってもらう。作っていたのは「ガンプラ」とかではなくて「スーパーカー」が多かったような気がする。

子どものことだからそんなにキチッと作れるわけではなく、塗装とかもせず、ただパーツを図面通りに組み上げるだけだったけれど、できあがった時はそれなりに達成感があった。

それを誰かに見せるというわけでもなく、ただ(ヘタクソながらも)完成したものを眺めてしばらくニヤニヤするというだけのことだ。つまりは自己満足である。しかしやがてそれにも飽きて、押し入れのおもちゃ箱に放り込んでしまう。そしてまたしばらくすると新しいプラモデルが作りたくなる。そういう「一人遊び」である。

ひょっとしたら私にとってのブログもそういうものかもしれないと思ったりする。

 

もちろんブログの文章は他人に読んでもらうためのものである。

ブログは「一人遊び」かもしれないと言いながら矛盾するようだが、誰も読んでくれない文章をただ淡々と書き続けるのはやはり難しい。

思うに、書くことには二段階の楽しみがあるのだ。一つは書くこと自体の楽しみであり、もう一つはそれを自分以外の人間に読んでもらう楽しみである。それは連続したものではあるが、同じものではない。

あるいは「書く楽しみ」「読まれる喜び」と言ってもいいかもしれない。どちらもブログを続けていくのに必要なものだが、そのバランスが大事だと思う。

「書く楽しみ」だけでは継続のモチベーションとして少し弱いし、「読まれる喜び」にとらわれ過ぎると書くことがつらくなるかもしれない。

この二つがいい感じでバランスが取れていれば、ブログを長く続けられるような気がする。

 

なんだかわかったようなことを書いてしまったが、3年経ったいまでもまだ手探りでブログをやっている。ずっと手探りかもしれない。それはそれでいいか。

それじゃあ、4年目いってみよう。

 

 

便利のインフレ

 

私は「ヤフオク」のヘビーユーザーなのだが、最近「かんたん決済」のシステムが少し変わったみたいで、いままで利用できていた(プリペイド式の)クレジットカードが一部のストアで使えなくなった。

 

その場合は「コンビニ決済」を利用する。通知された専用の番号をメモしてコンビニに行き、機械で手続きをしてレジで代金を支払うのだが、これがなかなかにめんどくさい。

クレジットカードなら落札してすぐに家に居ながら決済できるのに、コンビニだと翌日になってしまう(終了時間が夜のことが多いので)。雨とか降っているとさらに億劫になる。不便である。

 

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しかし考えてみれば、初めて「コンビニ決済」を利用した時には「なんて便利なシステムなんだ」とちょっと感動したものだ。

それまでは通販で何かを買ってお金を払う方法といえば、たいてい銀行や郵便局での「振込み」だった。(「代金引換」という手もあるが、本のような細かい買い物には向いていないし、料金が高い)

だからATMが使える時間に合わせてわざわざ銀行なり郵便局なりに出向かなければならなかった。不便である。

それがコンビニなら24時間いつでも利用できるのだ。

 

いやしかし、その不便な銀行振込みにしたところで、ATMができるまではいちいち「窓口」で手続きをしなければならなかったのだし、それを考えればATMというのはものすごく便利なものなのだと改めて気づく。

 

いままでは便利だと思っていた物やサービスも、それよりさらに便利なものが出てくると相対的に不便になってしまう。そしてさらに便利なものが……という「便利のインフレ」状態になっていく。(少年漫画の「強さのインフレ」みたいなものだ)

こうして人は便利から引き返せなくなっていく。

なかにはどんどん便利になる生活に違和感を感じる人というのもいて、そういう人はあえて不便な生活をやってみようとしたりするのだが、それはやっぱり少数派で、たいていの人は加速する便利に乗っかって流されていくのである。(私もそうなのだけれど)

その流れの果て、便利のインフレが極まった世界というのはどういうものなのか。

見てみたいような、怖いような。