何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

いまそこにある危機

 

ついにというか、とうとうというか、私の職場でもコロナの感染者がでた。

昨日、久しぶりに隣の市の大型書店に行って至福の時間を過ごしていたら、ポケットの携帯が鳴った。会社からだった。

会社に限らず、日頃私に電話がかかってくることはめったになくて、かかってきた時はたいてい悪い知らせか面倒な出来事なので、緊張して電話に出るとそういうことだった。

 

同じ職場といっても、感染した人とはそれほど近くで仕事をしているわけではなく、会話することもあまりない。

電話では、最近の接触の有無や、現在の健康状態を訊かれたが、とくに異常なことはない。

仕事がどうなるかはわからないが、そう何日も停滞することはないようだ。

しかし、ここにきて急にコロナが身近なものに感じられてきた。

 

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なにをいまさら、と思われるかもしれないが、いままではまだどこか遠いところの出来事のような気がしていたのだ。

毎日感染者が増え続けていることは知っている。私が住んでいる市でもそうだ。

私だって、マスクはもちろん、手洗いやうがいなどもちゃんとやってきた。

しかし、頭では理解していても、肌身に感じるというほどではなかった。

実際に身の回りで感染者が出て、すぐそこまで危機が迫って初めて危機感らしきものを感じているような気がする。

いや、どうだろう?

どこまで深刻に考えているのか、自分でもちょっと怪しい。

 

だいたい、コロナに限らず、私には危機感というものが乏しい。いや、乏しいというより、欠落しているのではないかと思うことがある。

危機に対して、事前に対策を講じるということができない。

危機が目の前に迫り、その魔手がそっと顔に触れてから「しまった!」と思うタイプだ。一般的にはそれを手遅れという。

それは想像力が欠けているからそうなのか、それとも信じられないほど怠惰だからなのか、たぶん両方だと思うけれど、とにかくそうなのだ。「楽観」の度が過ぎるというか。

 

いや、こう書くと私がまるで馬鹿みたいなので少し補足しておくと、私の「楽観」は、超高密度の「悲観」が自重に耐えかねて「虚無」になり、さらにその「虚無」を突き抜けて「楽観」に至ったという代物なのだ。

つまり「ホワイトホール」的な?

あるいは「地面を掘っていったらブラジルに出た」的な?

やっぱり馬鹿なのか。

 

そういうわけで、いまごろになって自治体から来ていた「ワクチン接種のお知らせ」を読んでいる次第です。

 

 

イワシの梅煮

 

休日。

午前中に銀行に行って、そのままスーパーで買い物。

最近すっかり夏バテなので、今日はとりあえず肉を食べようと思っていたのだが、鮮魚コーナーで小イワシ10尾98円で売っているのを見かけて立ち止まる。や、安い。

これを3食分とすると1食あたり約33円、4食にすると約25円。最近本多静六の本を読んで、財布の紐を締めようと思っていたところなのだ。

しかし今日は肉を……でも安い……頭付きは処理がめんどう……でも安い……時間が……でも安い……としばらく悩んでいたが、結局カゴに入れる。

 

家に帰ってさっそく料理にかかる。

いまからやると昼飯が少し遅くなりそうなのだが、すぐにやらないとめんどくさくなって、「やっぱり今日はやめとこ」といって冷凍庫に突っ込むことになるだろう。そして再び解凍される日が来るかどうか……。

まず、小さなイワシを一尾ずつ、包丁で頭を落として内臓を取っていく。

以前読んだ魚柄仁之助さんの本に、小さなイワシなら包丁を使わずに指だけで捌けると書いてあったのだが、指でイワシの頭を引きちぎるのはさすがにちょっと抵抗がある。

小さい魚なので頭を落とすのは簡単だが、包丁の切っ先で腹を裂いて内臓をこそぎ取るのがけっこう難しい。まあ、人に出すものではないから、見た目はあまり気にしない。

流水で洗い、キッチンペーパーでしっかり水気を取って、「めんつゆ」で作った煮汁の中に並べて火にかける。アルミホイルで落とし蓋をして、しばらく煮たら(チューブの)おろし生姜を加え、さらに冷蔵庫にあった梅干しをいくつか入れる。今日は「梅煮」にするのだ。

 

こう書くと、(手抜きとはいえ)手際がよくて手慣れた感じに見えるけれど、実際はもたもたぐずぐずである。

煮魚自体あまり作らないし、作るとしても切り身や下処理してある魚を買ってくる。実は魚の頭を落としたのは今回が初めてなのだ。

一応自炊をしてる身としては、魚は捌けるようになったほうがいいとは思うが。

 

さて、できたものがこちら。わざわざ人に見せるような出来ではないけれど。

 

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味は悪くないと思うが、身が小さすぎて食べた気がしない……。次はもう少し大きいイワシで作りたい。

でも煮た梅干はものすごくおいしい。

 

世の中の喧騒それはそれとして

今日はイワシの梅煮をつくる日 

 

 

運まかせ

 

例によって例のごとくブックオフを徘徊していると、文庫棚の近くにこんなものが売られていた。

 

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たしか「お楽しみセット」みたいな名前がつけられていたと思う。文庫本2冊で300円である。同様のものが20個ぐらい平積みしてあって、すでにいくつか売れているようだった。

 

本というのは個人の趣味嗜好が強く出るものなので、こういう福袋的な売り方には向かない商品だ。

それに、こう言っては悪いけれど、どうせたいした本は入っていないだろうと思った。

たぶん少し前に話題になったようなエンタメ系の本で、店の在庫がダブついているのでなんとか売ってしまおうという店側の苦肉の策ではないのか。

間違っても硬派な本、例えば岩波文庫講談社の文芸・学術文庫あたりが入っていることはないだろう。

 

と思ったにもかかわらずこうして買ってしまったのは、中を確かめたいという好奇心もあるけれど、ブログのネタになると思ったからだ。

ブログを始めて以来、行動の基準に「ネタになるかどうか」という要素が加わってしまった。困ったものだ。

 

で、実際に開けてみたところ……二人の女性作家の小説が入っていた。

二人とも、名前は聞いたことがあるが読んだことのない作家だ。最近の小説をあまり知らない私でも知っているのだから、人気がある作家といっていいのだろう。本はどちらも今から6、7年前に刊行された文庫で、状態はいい。(本当は画像を見せて「こんなのが入ってました!」と言うつもりだったのだが、現役の作家の、今も新刊で入手できる本だったので、堂々とブックオフで買ったとは言いにくい)

カバーに書かれている文章から、一方は長編の恋愛小説で、もう一方は地方を舞台にした短編集だとわかる。

なんとなく若い女性を意識したセレクトのような気がする。

 

ちょっと「はずれ」かな、というのが正直な感想。

もちろんその作家が「はずれ」という意味ではなくて、 自分が普段読まないようなタイプの本だったことに対する「はずれ」である。

しかし、たまにはこういう自分の趣味嗜好からはずれた本を読むのもいいかもしれない。

好きな作家、好きなジャンルの本ばかり読んでいると、どうしても視野が狭くなる。読まず嫌いというのもよくあることだ。なにがきっかけで新しい世界が開けるかわからない。

そういう意味では、こんなふうに「運まかせ」で本を買うのもありかもしれない。

 

できるだけいろいろな本を読んでみよう。

本は読んでみなくちゃわからない。

 

 

蓄財について

 

本多静六『私の財産告白』実業之日本社文庫、2013 / 実業之日本社、1950)という本を読んでいる。

 

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著書は林学(森林や林業に関する学問)の学者なのだが、その本業以上に投資家として、また蓄財術に関する本の著者として知られた人だ。

この本も、著者の実際の経験に基いて、いかに財産を築くか(築いたか)を語ったものである。

 

こういうのはともすれば「成功者」のただの自慢話と思われやすい。とくに日本人は正面からお金の話をするのを嫌う傾向がある。

しかも学者が蓄財の話をするというのは、一般的なイメージに合わないかもしれない。学者はお金などに頓着せず、ひたすら学問に没頭するもので、むしろ「清貧」の方が似つかわしいというのが学者のイメージではないだろうか。

もちろん著者もその辺のことは十分に承知しているが、それでもはっきりとお金の話をする。

 

(……)財産や金銭についての真実は、世渡りの真実を語るに必要欠くべからざるもので、最も大切なこの点をぼんやりさせておいて、いわゆる処世の要訣を説こうとするなぞは、およそ矛盾もはなはだしい。(p.11、下線は原文傍点)

 

では、本書にどのような蓄財の方法が書かれているかというと、これがいたって当たり前の方法なのである。

具体的には、まず月収(手取り)の4分の1をあらかじめ貯金して、残りの4分の3で生活すること。臨時収入はすべて貯金。徹底して倹約すること。そうして「勤倹貯蓄」し、それを原資として堅実な投資をすることーーといった具合だ。

なにか特別な方法や、効率的な蓄財術を期待した読者は肩すかしを食うかもしれない。しかし蓄財に近道を期待してはいけない。

 

 金儲けを甘くみてはいけない。真の金儲けはただ、徐々に、堅実に、急がず、休まず、自己の本職本業を守って努力を積み重ねていくほか、別にこれぞという名策名案はないのであって、手ッ取り早く成功せんとするものは、また手ッ取り早く失敗してしまう。(p.112)

 

当たり前のことを地味に、堅実に、長期間実行し続けることは難しい。強い意志と工夫が必要だ。

これが書かれたのはいまから半世紀以上も昔のことなので、現代には当てはまらないことも多々ある。しかし、その根幹をなす考え方は現代でも有効だと思う。(だから復刊されるわけだが)

この本の主題は単なる蓄財術ではなく、お金を中心にした人生論なのである。

 

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さて、ここから先は個人的なこと。

私は貯金や倹約(節約)に対しては興味もあるし、自分なりに実践もしているつもりだけれど、投資というものにはちょっと抵抗があっていまだにやったことがない。

その抵抗というのは、リスクに対する不安とかではなく、なんというか、利子や配当といったものに対する疑念のようなものだ。

人間は実際の労働に見合った対価を得ればそれでいいのであって、(年金などは別にして)いわゆる不労所得を期待するのはあさましいのではないか、というナイーブな(?)労働観が心のどこかにあるのだと思う。

こんなことを言うと「この資本主義の世の中で、なに寝言を言っているのか?」と笑われるかもしれない。いや、私自身もそう思う。

これは主義や思想といったたいそうなものではなくて、ただの「気分」である。お金に対するある種の「潔癖」と言えるかもしれない。

しかし、そうは言っても現実的にお金の不安はあるわけだし、少しでも積極的にお金を増やすことを考えるべきではないのかと、いまさらながらに思ったりしている。

さて、どうしたものか。

とりあえず簡単そうな「つみたてNISA」でも考えてみようかなあ。

 

 

味噌、白秋、台湾藻

 

スーパーで買い物をしているとき味噌が切れていたのを思い出して、いつも買っている味噌を手に取ったのだが、ふと思いなおしてそれを棚に戻した。

今日は普段買わない味噌を買ってみようと思ったのだ。

いままで使っていた味噌は大手メーカーのだし入り味噌で、ずっとそればかり買っていた。簡単に使えて過不足なくおいしいので定番にしていたのだが、最近なんだか生活に倦怠感があるのでちょっと気分を変えたくなったのである。

あらためて棚を見てみると、けっこういろいろな味噌が並んでいる。

しかし私は(たびたび書いているように)「貧乏舌」なので、あまり微妙な味の違いなどわからない。味噌の違いなんて、そんなにはっきりわかるものだろうか? そう思うと、どれでもいいような気がしてきて逆に選べなくなる。

 

ふと『白秋』という名前が目にとまった。

手に取ってラベルを見ると、福岡の柳川市にある「鶴味噌醸造というところが作っている味噌らしい。柳川は詩人の北原白秋の生地である。それで『白秋』。

私はとくに白秋のファンというわけでもないが、これに決めよう。

家に帰ってさっそく味噌汁を作る。具は「豆腐+たまねぎ+ワカメ 」の(私の中では)スタンダードな組み合わせ。

ちょっと甘口でおいしかった。(本当はもっとおいしそうな表現をしたいのだが、残念ながら食レポ能力がないので……)

 

ところでその味噌のフタには北原白秋の短歌が一首引用されている。

 

  橋ぎわの醤油並倉西日さし

  水路は埋む台湾藻の花

 

故郷柳川を詠んだ歌だ。柳川は縦横に水路が巡る水の街である。

ここに歌われている「並倉」 (並んだ倉)は、この味噌を作っている「鶴味噌醸造」にあるレンガ造りの味噌蔵のことで、「醤油」というのは白秋の勘違いらしい。

 

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(画像は「鶴味噌醸造(通販部)」のHPから拝借)


「鶴味噌醸造」は明治3年創業の老舗。この並倉は明治の終わりから大正の初めにかけて順次造られたもので、現在でも外観はそのままに(内部の設備を現代的にして)味噌蔵として使われているらしい。

掘割に面していて、柳川名物の「川下り」のコースの一つにもなっている。

 

「台湾藻」というのは、一般的にはホテイアオイと呼ばれる水草で、こういう植物だ。

 

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(画像はWikipediaより拝借)
 

米原産の外来種で繁殖力が強く、条件が良ければ画像のように水面を覆い尽くすようになる。まさに「水路は埋(うず)む」という感じだ。(花は夏に咲く)

しかしなぜ「台湾藻」というのかはわからなかった。あまり一般的な言葉ではないのかもしれない。

ちなみに上の短歌が収録された 歌集『夢殿』昭和14年)には「台湾藻」が出てくる歌がもう一首あって、こちらには「ウォータアヒヤシンス」と英語名のルビがふってある。(参照・引用は青空文庫版。岩波の全集は未確認)

 

  草家古り堀はしづけき日の照りに

  台湾藻[ウォータアヒヤシンス]の群落が見ゆ

 

なんだか時間まで水路の水のようにゆったりゆったり流れているようだ。 

 

柳川は、学生時代の帰省のときにいつも電車で「通過」していたけれど、実際にその地を歩いたのは30年ぐらい前に一度きりだ。

出不精の私にしては珍しく、ちょっと再訪したくなった。

いまの季節なら「台湾藻」の花も咲いていることだろう。

でも「川下り」は遠慮したい。

舟に酔うので。

 

 

絵葉書を読む(その8) もんぺ

 

『絵葉書を読む』第8回。今回の絵葉書はこちら。

『モンペ』中原淳一

 

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「もんぺ」は、主に農山村の女性の仕事着として古くからあった袴状の着物である。(名称や細部の仕様は地域によって異なる)

この「もんぺ」が広く全国的に知られるようになったのは戦時中のこと。

いわゆる戦時体制になると、女性の和装が非活動的であるとしてその改革が議論されるようになった。その改革案の一つとして「もんぺ」が奨励されたのである。

もっとも昭和10年代の前半においては、奨励されただけで義務化されたわけではない。都市部の女性からの評判も悪く、実際にはあまり着用されなかったようだ。

しかし太平洋戦争が始まり、生活が次第に困窮してくると、男性の「国民服」と同じように女性は「もんぺ」を着用することが義務のようになっていった。私たちは、戦時中の女性は常にもんぺ姿のようにイメージしがちだが、それは戦争も後半になってのことだ。

 

画像の絵葉書は、若い女性に絶大な人気があったイラストレーター、中原淳一によるもんぺ姿の女性である。『少女更生服絵はがき』と題された絵葉書セットの中の一枚だ。(更生服とは、手持ちの服をリメイクして作った服のこと)

「もんぺ」というよりはオーバーオールみたいで、ポケットもついている。上に着ている服も、和服ではあるが袖が絞られていてシャツのようになっており、靴もスニーカーっぽい。

限られた条件の中で、なんとか工夫して少しでもオシャレに、ということだろうか。

 

差出人は新潟のある村の女性、宛先は「舞鶴海兵団」所属の男性である。(□は判読不明)

 

日に増し暑さを加はり、しのぎがたい時節と成りましたね。其の後貴男様には、お変り成く[ママ]軍務致して居る事とお察し致します。

私も相変らず元気で増産に励んで居りますから、何卒御安心下さい。故郷は、早あの忙しい田植も過ぎ、□□□□も過ぎ去って今は、田の草取りで一生県[ママ]命です。明日から又、励みませう。そして、貴男様の凱旋の日が一日も早く参りますやう祈り上げます。

 

宛名人の男性は苗字が違うから、家族というわけではなさそうだが、文面から同郷の人だと思われる。

ちなみに葉書の消印の日付は「昭和20年7月7日」

あとひと月もすれば終戦となるのだが、もちろん彼女はそんなことは知らない。先の見えない日々を懸命に生きている。

宛名人の男性も、「凱旋」はできないにしても、無事に故郷に帰れただろうか。

 

 

お金の話

 

私の両親は、子どもの前でお金の話をしなかった。

いや、姉に対してはどうだか知らないが、少なくとも私の前ではしなかったし、するべきではないと思っていたようだ。

 

私は「末っ子の長男」として激甘に育てられたので、なにか欲しい物があると(高価な物でなければ)割と簡単に買ってもらえた。

家が裕福だったわけではない。むしろ家計はけっこう苦しかったはずだ。

それなのに、あるいは、それだからこそ両親は、私にお金のことで「弱み」を見せたくなかったのかもしれない。子どもにお金の不自由を感じさせないということが、親としての矜持だったのかもしれない。

しかしその結果、私はお金についてあまりよく考えることなく大人になってしまった。

 

お金を稼ぐこと、使うこと、貯めること、そういうことを学ぶ機会がほとんどなかった。

なによりお金のありがたみや怖さというものを知らなかった。 

それで大人になったのだから、苦労しないほうがおかしい。 ずいぶん回り道をしながらお金というものを学んだように思う。

もっとも、いまでも稼ぐ・使う・貯めるのどれも下手ではあるけれど。

 

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最近少しだけ「つまみ読み」した福原麟太郎『人生十二の知恵』講談社学術文庫、1987 /  新潮社、1953)という本に「金銭について」という章があって、そこで福原は、西洋人はお金というものに対してとてもドライではカラッとしているが、日本人はお金をいやしむべきものと考える習慣を持っているからあまりはっきりと金銭の話をしたがらない、というようなことを書いていた。

これは一般論としてなんとなくわかるような気がした。

もっとも、このお金をいやしむべきものとする感覚は、ある時代の、ある階層の人々の価値観だったのかもしれないので、簡単に「日本人は……」と一般化するわけにはいかないのかもしれない。なんとなく儒教道徳っぽい感じもするし。(当てずっぽうだけど)

しかし、そういえばうちの両親もお金の話をしたがらなかったなあ……というところから、上に書いたようなことを思い出したのだ。

 

いまの若い人はどうなんだろう?

私はいまでも人とお金の話をするのは恥ずかしいような、気まずいような感じがするのだが。