何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

門前の小僧

 

「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉がある。

お寺の近くに住んでいる子どもは、(いつもお経が聞こえてくるので)習ってもいないのにお経を暗誦できるようになるということから、環境が人に与える影響の大きさを語った言葉だ。

別に悪い意味で使われる言葉ではない。

しかし、ふと思ったのだが、その小僧が口にしたお経は、本当に「お経」と言えるのだろうか?

小僧が口にしたものは、耳から入ってきた〈音〉をそのままトレースしただけのもので、当然その意味内容を知っているわけではないだろう。

そうであれば、それは本物の「お経」とは言えず、「お経のようなもの」としか言えないのではないか?

 

なぜ唐突にこんなことを言うかといえば、短歌のことを考えていたからなのだ。 

私はときどき短歌を作ったりする。意識的に作ることもあるが、ふっと思いつくこともある。ときどきこのブログにも載せている。

誰かに習ったわけではなく、真面目に研鑽しているものでもない。実に気まぐれでいいかげんなものだ。ただの「遊びごと」であり、それでいいのだと思っていた。

しかし、そうやってできたものは本当に短歌といえるものなのだろうか。

それは小僧のお経と同じで、見よう見まねの「短歌のようなもの」にすぎないのではないか。 

要するに、いつまでも門前で遊ばずに、興味があるならちゃんと「入門」して、腰を据えて学ぶべきなのではないか、という気がしてきたのだ。

 

前置きが長くなったが、そういうわけでいまこんな本を読んでいる。

穂村弘東直子沢田康彦『短歌があるじゃないか。 一億人の短歌入門』(角川書店、2004)

 

f:id:paperwalker:20210427092553j:plain


この本は、編集者の沢田さんが主催するメールとファックスによる「シロウト」短歌会『猫又』に寄せられた短歌を、歌人の穂村さんと東さんが選評しながら三人で鼎談するというものだ。

この本を読んでまず思ったのは、

「みんな本当にこんな難しいことを考えながら短歌を作ってるんだろうか?」

ということだ。

穂村さんと東さんの解説を読んでいると、一つの短歌にいろいろな計算が働いていることがわかるのだが、みんなそんな計算をしながら作っているのだろうか。

頭で考えずに、感覚的に短歌を作れてしまう人もいるだろう。しかし穂村さんは、考えなければダメだと言う。

 

でも、そこがやっぱりそれはそれで大きな限界で、考えなくても書けるんだからいいのかっていうと、短歌はやはりそうじゃない。ここのところがすごく面白いんですが。(p.144) 

 

たぶん実際に短歌を作るときは、意識的な計算と、経験に裏打ちされた無意識的な計算(≒勘) の両方が働いているのだと思うのだが、なんか難しそうだなあ。

沢田さんは、「むしろ『こんなんならオレにもできる』とその気になって」気軽に短歌を作ってほしいと書いているが、いやいや、私には逆にハードルが上がったような気がした。

 

さて、どうしたものか。

やっぱり門前で気楽に遊んでいたほうがいいのか、思いきって門の中に一歩足を踏み入れたほうがいいのか。

小僧は思案中。

 

 

路地裏の古本屋のように、それから

 

はてなブログ」の管理画面に「こよみモード」というのがあって、その月のカレンダーに投稿した日が表示されるのだが、そのカレンダーの下(もしくは右側)に「✖️月のあゆみ」と題して、過去のその月に投稿した記事の冒頭部分が表示されるようになっている。

私はいま3年目に入ったところなので、今年の4月のカレンダーの下に、去年と一昨年の4月に投稿した記事が一つずつ表示されるわけだ。

その一つを読み返してみた。

 

paperwalker.hatenablog.com

 

一昨年の4月16日、ブログを始めてほぼ1ヶ月後、ちょうど10件目の記事だ。

記事の最初の方では、いわゆる「運営報告」のマネゴトのようなことをしている。どうもこの頃の私は、ブログというものは定期的に「運営報告」をするものだと思い込んでいたらしい。

しかし注目したいのは記事の終わりの方で、そこで私は自分のブログを古本屋に喩えてこんなことを書いている。

 

1日に何百ものアクセスがあるメジャーなブログは、例えるなら、駅ビルに入っている大型新刊書店のようなものだ。

店内は明るく活気があり、毎日溢れるほどの新刊が入ってくるし、多くの客がひっきりなしにやってくる。

それに比べて私のブログは、路地裏の古本屋といったところか。

埃っぽくて薄暗く、奥の帳場には仏頂面をしたオヤジが座って新聞を読んでいる。(あくまでも昭和の古本屋のイメージです)

客は1日に10人くるかどうか。誰も来ない日だってある。

 

ブログを始めて1ヶ月、10記事書いた時点で、自分のブログは人気ブログにはなれないと悟っているあたり、先見の明があるというべきか、諦めが早いというべきか。

この部分は今現在のこのブログについてもほとんどそのまま当てはまる。まったく進歩というものがない。

しかし今では、これがこのブログの基本姿勢のようなものかなと思っている。

 

f:id:paperwalker:20210422095830j:plain

 

北向きの店はあまり日が差さず、店内は薄暗くて埃っぽい。

店主は今日も仏頂面で帳場に座り、適当に新聞や本を読んでいる。ときどきラジオをつけると、なぜか決まって昭和の歌謡曲ばかり流れてくる。

およそ「商売っ気」というものが感じられない店だ。

もちろん店主だって、内心では大勢のお客さんに来てもらいたいと思っているのだが、そんな気持ちは顔に出さない。出したら負けだ(?)と思っているのかもしれない。つまりは痩せ我慢である。

まあ、商売と思えば苦労だが、道楽と思えば気が楽だ。

 

店のドアがカランと音を立て、お客さんが1人入ってくる。

店主はボソッと「いらっしゃい」と言っただけで、読んでる本から顔も上げない。実に素っ気ない。しかし本当はそのお客さんが気になって仕方ない。初めて見る人だと思うけど……。

お客さんは狭い店の中で、隙間が目立つ棚を丹念に見てくれる。店主はそれだけでも嬉しいのだが、なんと一冊の本を手に取って帳場に持ってきてくれたではないか!

しかし店主は仏頂面のまま(少し緊張しているので、よけいに顔がこわばっている)本を受け取り、後ろの見返しに鉛筆で書かれた値段を確認し、お客さんからお金をもらう。

本当は両手を握って感謝を伝えたいぐらいだが、もちろんそんなことはせず、ボソボソっと「ありがとうございました」と言っただけだ。気の利いた会話はもちろん、愛想笑いのひとつもできない。どうにも客商売に向いていない。

お客さんが帰って、また独りになった店主は思う。

あの人、また来てくれるかなあ……。

 

このブログはこんなイメージで「運営」されています。

 

 

立って半畳寝て一畳

 

学生の頃は6畳+4畳半(台所)のアパートに暮らしていた。

しかし整理整頓能力が皆無の私はその二間をきっちり管理できず、6畳の方は布団を敷くスペースを除いては本と物で溢れ(その布団も最終的には「万年床」になったのだが)、4畳半の台所は不要になったゴミ置き場と化していた。

そんなアパートに、学校を卒業してからも20年近く住んでいた。

 

その後いろいろあって田舎の実家(一戸建)に戻り、さらになんやかんやあって今ではそこで独りで暮らしている。

実家には大小合わせて8部屋ぐらいある。私が子どもの頃には、ここで最大7人が生活していた。それがいまや私1人だ。当然その広さを持て余すことになる。 

主に生活に使っているのは(台所を含む)3部屋ぐらいで、あとの部屋は物置状態になっている。しかもそこにある物の9割ぐらいは不用品のような気がする。要するに、学生時代のアパートが一戸建に変わっただけで、まったく進歩していない。

 

f:id:paperwalker:20210418191326j:plain


家の狭さを嘆く人は多いかもしれないが、無駄に広い家というのも困りもので、スペースがあるからついつい無駄な物を買ってしまう。

それでもきちんと片付けられればいいけれど、私のように片付けられない人間は、溢れかえった物の中で途方に暮れる。

眠っている間に小人が出てきて片付けてくれないかなと思ったりするが、実際に出てくるのはクモとゴキブリぐらいなものだ。

死ぬまでこの家で暮らすにしても、老いる前に引っ越すにしても、どちらにしてもいつかは片付けないといけないのだが……。

 

「立って半畳寝て一畳」という言葉がある。(「起きて半畳」ともいう) 

人間には、立っているときには半畳(畳半分)、横になったとしても一畳のスペースがあれば十分という意味だ。そんなに広い場所はいらない。

またこの後に「天下取っても二合半」と続くこともある。

人間は一日に二合半の米があればなんとか生きていける。それは庶民でも天下人でも同じことだ。(「二合半」については、人間が一食で食べることができる米の量とする解釈もある)

いずれにしても過剰に「持ちすぎる」ことは無意味ということだ。

 

場所にしても、物にしても、人間に本当に必要なものはそう多くない。

そういう気持ちで生きていきたいものだ……と言いながら、つい先日、置き場所があるのをいいことに、また大量の本を購入してしまった。(前回の記事参照)

まったく、どの口が言うか……。

 

今週のお題「間取り」

 

 

積んで花実が咲くものか

 

少し前にこんなことを書いた。

  

paperwalker.hatenablog.com

 

これはどういうことかというと、 まず昭和に刊行された「日本文学全集」を一組買って、第1巻から順に読んでいき全巻読破しようという壮大な計画である。

しかしその前提である中古の「日本文学全集」を買うところで長年つまずいている。

種類にもよるが、この手の文学全集は少ないもので40巻ぐらい、多いものになると100巻を超えるものもある。

そんな大量の本を一気に買うのは、いかに古本好きでもちょっとなあ……ということを書いている。

 

そもそも私は優柔不断かつ臆病な性格で、石橋を渡る前に叩きに叩き、充分に強度を確かめたうえで、でも渡らないというめんどくさい人間なのだ。 つまり行動力というものがない。何かを計画してもなかなか実行に移せない。

だから今回のこの計画も、計画の段階でずっと凍結されるのだろうと私自身が思っていた。

ところが……。

 

f:id:paperwalker:20210415181652j:plain


買ってしまった。

中央公論社《日本の文学》全80巻。

上の記事を書いたら変な「勢い」がついたみたいで、数日後にポチッと……。

いやあ、勢いって怖いね。

 

買ったのは例によって「ヤフオク」からで、さて、気になるお値段はというと……ほぼ福沢先生お一人分といったところ。

本だけなら一冊100円もしなかったのだが、さすがにこれだけの冊数になると送料が馬鹿にならず、結局福沢先生のお力に頼らざるを得なかった。先生、ありがとうございます。

ついでに言うと、うちの家の前の道は狭くて大型の車が入って来れないので、配達員さんにはこの80冊(一箱約20㎏×3)の本を100メートルほど台車で運んでもらった。配達員さん、ありがとうございます。

 

実はこの時の「ヤフオク」では、ほかの出版社の文学全集ならもう少し安く買えた(競争相手がいなければ)のだが、結局この中央公論社の全集にした。

一つには、岡崎武志さんが以前なにかの本で、日本文学全集を一組持っておくならこの中公の《日本の文学》がおすすめだと書いていた(と思う)からだ。

もう一つは、同じ中公の全集で《日本の詩歌》(全30巻+別巻)を持っているので、お揃いでいいかなと思ったのだ。 この時期の中央公論社の全集類はいろいろあっておもしろいのだが、これについてはいつかあらためて書きたい。

まあ、けっこうな出費になってしまったが、いつものようにタバコに換算して自分をごまかしている。

 

paperwalker.hatenablog.com

 

それにしても全80巻か……。

一月に一冊ずつ読んだとしても、全巻読破するのに6年と8ヶ月かかる。

いや、私は超遅読だし、ほかの本だって読みたいから、ニ月に一冊読めれば上出来か。とすると、読み終わるのに13年と4ヶ月……。とっくに還暦を過ぎている。

10年後にもまだこの全集を読んでいるのかと思うと、なんかちょっと笑える。

読んだら順次このブログに感想を書いていきたいと思うが……もし3ヶ月経っても何も書かなかったらこう思ってほしい。

「野郎、また積みやがったな……」

 

  

文章の墓場

 

はてな」の今週のお題が「下書き供養」というもので、これはつまり、いままで「下書き」として放置していた文章を公開してみようという企画だ。

そこで私も、どのくらい下書きの文章が溜まっているのかと管理画面で調べたところ、20個ぐらいの記事が書きかけのまま放置されていた。

書き始めたもののうまく話が進まなかったり、途中で別のアイデアが浮かんだり、飽きてしまったりと、記事を途中で止める理由はいろいろあるけれど、かといって捨ててしまうのはもったいないような気がして、また今度続きを書こうとそのまま放置してしまう。

しかしその記事が後日完成されることはまずない。

なるほど、確かに記事になり損なった文章の墓場のようでもある。

 

f:id:paperwalker:20210410230953j:plain


しかしその中で一つだけ、書きかけではなく、一応完成した(と思われる)記事があった。

一年ぐらい前の今週のお題のための記事で、「卒業」がテーマになっている。

完成したのなら公開すればよかったのに、なぜか「下書き」として放置されている。いまとなってはその理由も思い出せない……が、なんとなく想像はつく。

タイトルで【戯文】と断っている通り、どうでもいい内容なのだ。書いてはみたものの、あまりの内容のなさに公開をためらったのではないかと思う。一年前の私は、ブログの記事に対していまよりも真面目だったのかもしれない。

いまの私はその辺がだいぶユルくなっているので、この機会にその記事を公開しよう。

供養というより、墓場から出てきたゾンビのようなものだが、これでこの記事も「下書き」から「卒業」ってことで……。

 

 

 【戯文】かってに卒業

 

「卒業」という言葉は、昔は主に春の学校行事として使われていたと思うが、いまは用途が拡がっているような気がする。

 

アイドルグループから誰かが脱退するのを「卒業」と言うようになったのはいつからだろう?

一人だけ歌が上手いからソロ活動をするとか、他のメンバーと「反り」が合わなくなったとか、なんかもう飽きちゃったとか、そういう諸々の、ときにはドロドロの理由のための脱退でも、「卒業」という言葉を使えばなにか前向きな感じがしなくもない。終わりじゃなくて、新たな始まり、みたいな。

 

同じような言い換えの例をいくつか考えてみると、

・番組の視聴率が低迷しているので司会者降板→番組を卒業

・会社をクビになる→会社を卒業

・妻に捨てられた→結婚を卒業

・なんかやらかして刑務所へ→娑婆(シャバ)を卒業

・刑期を終えて出所→ムショを卒業

・死→現世を卒業

などなど。

 

このように人生のさまざまな局面に「卒業」という言葉が使われる。人生は「卒業」の連続だ。

そのたびに私たちの頭の中には「仰げば尊し」や「蛍の光」や「贈る言葉」(歳が知れるなあ)が流れ……たりはしないが、そういえば、閉店時間になると「蛍の光」を流すパチンコ屋があったなあ、などということを思い出す。

 

私はもうしばらく現世に「留年」します。

 

(なんだか久米田康治の漫画みたいになっちゃったなあ……)

 

今週のお題「卒業」

 

 

少し活動的な休日の短歌

 

最近、少し活動的になっている、ような気がする。

単純に暖かくなってきたからというのもあるが、ひょっとしたら薬で血圧が下がってきている(それでも基準よりは高い)ことと関係があるのかもしれない。

もっとも、活動的になったといっても、遠くの本屋に行くぐらいのことだけど。

 

というわけで、最近移転リニューアルしたブックオフに行ってきた。

ここは年に数回ぐらい行くところなのだが、3月に行った時には移転を知らず、空っぽになった旧店舗の前で愕然としたのだった。バイクで片道1時間15分ほどかけて行ったのに。

スマホを持っていればその場で移転先を調べられたのだが、あいにくガラケーユーザーなので肩を落として家に帰り、タブレットで調べた地図をプリントし、次の機会を待ったのだ。

 

f:id:paperwalker:20210406235600j:plain


新店舗は旧店舗からさらに10分ほどのところにあった。

大きな国道に接していて、スーパーと同じ敷地の中にある。建物は旧店舗より少し小さくなったような気がするが、スーパーから客が流れてくるのか、以前より賑わっているように見えた。(ちょうど夕方の買い物の時間だったからかもしれないが)

新規オープンではなく移転なので、品揃えが大きく変わったわけではないけれど、そこそこいい買い物ができた。もうちょっとゆっくり見たかったが、今日はあまり時間がなかったので。

6時ぐらいに店を出たが、外はまだ明るい。日が長くなった。

 

さて、ブックオフとは関係ないが、バイクに乗っている時間にときどき短歌(のようなもの)を考える、という話を以前した。

 

paperwalker.hatenablog.com

 

今回も往復の時間(約3時間)でそんなようなものを作ってみた。(ほかの日に作ったものも混じっているが)

 

 

  路上風景・春

 

色褪せた〈若葉マーク〉のアルト・ラパン

君はいつまで初心者なのか

 

ピッチリとしたウェアに身を包み

ロードバイクは全力疾走

 

誇らしく時を得たりと咲く花の

やがて散るとは思われぬほど

 

夕暮れに孫の手を引く老爺かな

わたしの指はだれにも触れない

 

家々にみな人が住みそれぞれの生活がある

なんだか不思議

 

 

絵葉書を読む(その6) 晩春の別離

 

『絵葉書を読む』第6回。今回は……とにかく画像を見ていただきたい。

 

f:id:paperwalker:20210402114320j:plain

 

見ての通り、絵の面にびっしりと文字が書き込まれている。この文字は表の通信欄から続いているのだが、いったい何が書かれているのか?

 

実はこれ、島崎藤村「晩春の別離」という詩を書き写したものなのだ。

「晩春の別離」は、詩集『夏草』(明治31年)に収められた百行を越す長篇の詩で、旅立つ友を送る心情をテーマにしている。

(ちなみにこの葉書、消印は読めないが、差出人の欄に「大正七年」とある)

差出人は、通信欄の冒頭にこんな一文を書いている。

 

故郷恋しきまま一句さし上げます。藤村詩集から晩春の別離。(私が読んで感極まりし文)

 

そして延々とこの詩を書き写しているのだ。

表の通信欄だけではもちろん足りず、裏の絵の下段の余白に続けて書き、それでも足りなくなって上段の絵の上にも書いている。

 

差出人は女性。宛名にも二人の女性の名前が並んでいる。

ここから先はあくまで想像だが、この文字の幼い感じといい、手紙の内容といい、差出人は女学生ではないかと思う。宛名人の二人も同じ年頃の友だちではないだろうか。

「故郷恋しき」とあるように、差出人はなんらかの理由(たぶん進学)で故郷を離れているのだろう。住所の最後に「松本先生方」とあるのは、女学校の先生の家に寄宿しているということなのかもしれない。

そして郷里の友だちに手紙を書いている。

 

彼女が机に向かい、詩集を横に見ながら、 その詩を小さな葉書に小さな字で一字一句書き写しているところを想像すると、なんだか息が詰まりそうな熱意を感じる。

自分が感動した詩を遠く離れた友だちにも教えたい。しかし今のように簡単にコピーしてシェアというわけにはいかない。本を送ることができないのであれば、こうして自分で書き写すしかない。

 

「晩春の別離」に描かれている友との別れを、自分の境遇に重ねているのだろうか。

 

  ああいつかまた相逢ふて

  もとの契りをあたためむ

 

少女らしい「感傷」と言ってしまえばそうなのかもしれない。

差出人が大人になってこの葉書を見せられたら、懐かしいと思う前に恥ずかしくなるかもしれない。

しかし彼女が少女として生きた時間が確かにあって、その時間の痕跡がこうして手紙という形で残されているのだ。