何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

先輩・後輩

 

いままで読んだことがないブログにふらっと入ったとき、記事を読んだあとに必ず確認するのがそのブログの「月別アーカイブ」だ。「はてなブログ」ならサイドバーか、記事の下に表示されている。(カレンダー表示の場合もあるけど)

これを見ると、その人がブログを始めてどのくらいになるかがわかる。

それがわかったからどうしたということもないのだが、自分より長くやっている人を見ると、なんとなく「先輩」と思ってしまう。

 

ネットの中では(自分で申告しなければ)年齢や経歴などはわからない。序列のない自由な世界(のはず)だ。

そこに「先輩・後輩」なんていう概念を持ち込むのはナンセンスだとは思うけれど、なんとなくそう思ってしまう。古い人間なので、そういう考え方が染みついているのかもしれない。

 

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逆に自分よりもブログの継続期間が短い人を「後輩」と思っているわけではない。

……いや、正直に言えば、ちょっとだけ先輩気分がなくもないかな。

しかし、ブログを始めて3ヶ月ぐらいの人が「読者」300人だったり、「月間PV数10000超えました!」なんて書いているのを見ると、零細ブログの書き手としては、

「そっ、そうなんだ。これからもその調子でガンバリタマヘ!」

などと言って、すごすごとその場を立ち去ったりする。(そこまで卑屈にならなくてもいいのだが)

なんだか職場に必ず一人はいる「できない先輩」みたいだ。

 

試しに「ブログ 継続率」で検索してみると、いろいろな人がそれぞれの根拠で数字を挙げているが、ざっくり言えば、ブログを1年継続できる人は全体の1割から3割ぐらいらしい。

もちろんこういう統計には曖昧なところがあって、どの程度の更新頻度を「継続」とみなすかとか、ブログの目的の違い(趣味か、収益か)とか、そのブログサービスではまだ日が浅くてもほかの所で長くやっていたという場合もあるので、あくまでも参考程度の数字だ。

私は明日でブログを始めて2年になるけれど、「はてなブログ」を見ていると2、3年続けている人はザラにいるようにも思える。しかし私の知らないところで、無数のブログが生まれては消えていっているのだろう。

 

なんでも長くやればいいというものでもないだろうけど、長くやってみて初めてわかるおもしろさというものがたしかにあって、ブログにもそれがあるような気がする。

そのおもしろさがわかるまで、ブログを続けることができるだろうか。

 

 

絵葉書を読む(その5) 明治天皇御大喪

 

『絵葉書を読む』第5回。今回の絵葉書はこちら。

明治天皇御大喪御霊轜馬場先通御』

 

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「霊轜」(れいじ)は霊柩を乗せた車のこと(轜車)。絵の右上に見える車がそうなのだろう。明治天皇の葬列を描いた葉書である。

 

明治45年7月30日、時の天皇崩御して「明治」という時代が終わった。そしてその日から元号が「大正」にかわる。

大喪に伴う様々な儀式を経て、約ひと月半後の大正元年9月13日に「葬場殿の儀」(一般の葬儀・告別式にあたる)が陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で執り行われた。その後柩は特別列車などで京都に移され、伏見桃山の陵墓に奉葬された。

当日は多くの人々が宮城(皇居)を訪れ、また沿道で葬列を見送りその遺徳を偲んだという。

 

上の絵葉書の差出人も当日宮城に行った一人だ。表の通信文を引用する。

 

拝啓、其后(そのご)は意外に御無沙汰致し候(そうろう)。貴兄には如何御消光遊され居り候や。次に当校にては、一昨日御大葬奉送の為め、本科生だけ宮城前に参拝致し候。当日の雑沓の光景は新聞紙上にて御承知かは候はねども、吾等学生は余り困難せず参拝の出来し事は幸福と存じ候。同志会の諸君に宜しく。草々。 (消光=月日を送ること)

 

宛先が某(旧制)中学校の寮になっているので、宛名人も差出人も中学生(現在の高校生ぐらい)と思われる。(若いわりには古風な文章を書くものだ)

歴史的な出来事も、無名の一個人の手書きの文字で語られると、本で読むのとはまた違ったリアリティがある。 

 

ところで上の絵葉書に押された消印の日付は大正元年9月15日(夕方)で、通信文にもあるように、御大喪の翌々日に出されたものだ。そうすると、この絵葉書はものすごく急いで作られたことになる。

葬列が宮城を出たのが13日の午後8時。それから急いで(たぶん写真を見ながら)原画を描き、製版し、印刷し、絵葉書を作る。その絵葉書を販売店に卸し、店に並んだ絵葉書を差出人が買って、文章を書いて出す。この間約2日。

この絵葉書は私的な通信と同時に、公的なニュースをほとんどリアルタイムで伝えているわけだ。

絵葉書が一種のメディアでもあることの好例といえるだろう。

 

 

無為な休日の短歌

 

今日は休日、なのだが、必要最低限の外出(金融機関、スーパー)しかせずにほとんど家にこもっている。

こう書くと「まあ、コロナ禍だからしかたがない」と思われるかもしれないが、そうではない。実は2年ぐらい前からこんな休日が増えているのだ。

必要最低限でも家の外に出るのはまだいい方で、前日に食料を買いこんで、休日は文字通り一歩も外に出ないという日も多い。本当に一歩も。

 

では家で何をしているかといえば、動画(ほとんどアニメ)ばかり見ている。

私の家にはパソコンはなく、もっぱらタブレットを使っているのだが、以前は通信量が限られていたため、よほどのことがないと動画なんか見なかった。それが2年前、携帯ショップの人の口車に乗ってに勧められて家にWiFiを引いてから動画を見ることを覚えた。これがいけない。それ以来、だらだらと動画ばかり見ている。

いや、人のせいにしちゃいけないな。WiFiや動画が悪いわけじゃない。

つまりは私に克己心というか、自分を律する力がないからそういうことになる。そういう人間にとって、安易な娯楽にあふれた今の世の中はとても危険だ。

ご利用は計画的に。

  

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しかし、それでは動画を見る時間を減らせば建設的で有意義な休日が過ごせるかといえば、そういうわけでもなく、やっぱりなんやかんやでだらだらと一日が終わってしまって、後から「せっかくの休日だったのに」と思うのだ。

 

そんな無為な休日のひとコマを短歌(のようなもの)にしてみました。ご笑覧ください。 

 

100ページ栞が動いた分だけが

今日という日の証明になる

 

積もらずにはかなく消える淡雪を

ふと思い出すATM前

 

はかれどもはかれども

わが血圧低くならず

フッとため息

 

小松菜のおひたし作っているうちに日が暮れてゆく

そんな休日

 

 

病院は待ち時間が9割

 

前回の記事でも書いた通り、会社の健康診断で高血圧と診断された。まあ、診断されたというか、数値を見れば一目瞭然だったのだが。

その後、会社の総務の女性から

「病院に行ってくださいね。じゃないと(会社の規則で)仕事ができなくなるかもしれませんよ」

と、やんわり脅されたので、市内に2つある総合病院の1つに(しぶしぶ)行ってきた。

 

自分のことで病院に行くのは4年ぶりぐらいなので、ちょっと緊張する。

総合の受付を済ませ、渡されたファイルを持って内科の受付へ。血圧を測ってくださいと言われたので、廊下の測定機で測り、出てきた紙を持ってまた受付へ。

「高いですね。念のために反対の腕でもう一度測ってください」と言われたので、また測って受付へ。

それから受付の前のイスに座って名前が呼ばれるのを待つ。待ち時間が長いのは覚悟していたので、文庫本を持ってきていたけれど、あまり集中できない。ちなみにスマホは持ってない。

めったに来ない病院に来ているのだから、この機会に「人間観察」でもしようと思ったのだが、私にはそういう物書きの〈観察眼〉がないので、「老人が多いな」という子どもにでもわかる事を確認しただけだった。

 

どれくらい待ったか、名前を呼ばれたので受付の横のドアから部屋に入って採血する。血を採られているところを見たくないので、不自然に目を逸らす。

それからまたファイルをもらって心電図をとる部屋へ。続いて胸部のレントゲン。受付にファイルを戻す。

またしばらく待って、名前を呼ばれたので先生がいる診察室へ。30前後の若い先生から検査結果の説明を受ける。内容はもちろん良くないが、だいたい予想していた通りなのでまあいい。

とりあえず2週間分の薬を出してもらい経過を見ることになった。

高血圧なんてすぐに良くなるものではないので、薬とは長い付き合いになるんだろうな。

 

それにしても、病院の待ち時間はもう少しなんとかならないものか。

待ち時間に対して実際の検査や診察の時間が短いために、余計に徒労感がある。

予約を入れていけばよかったんだろうけど、なんだかなあ。

 

こんなお土産をもらった。

 

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これに毎日の血圧の数値を書き込んでいかなければならない。めんどくさ……。

 

 

基本のキ

 

先日、職場の健康診断があって「警告」を受けた。病院に行けという指示だ。

問題は高血圧。けっこう危険な数値だった。

もともと高めの数値だったのだが、ここ2、3年で40ポイントぐらい上昇している。

これといった原因は思いつかないが、たぶん小さな事の積み重ねでそうなったのだろうと思う。小さな事からコツコツと。

 

その小さな事の一つは、やはり食生活だろう。とくにここ最近は自炊をサボり気味だった。

自炊といってもたいした事をしていたわけではないけれど、最近は自分でご飯さえ炊かずにコンビニやスーパーの弁当を買ったり、カップ麺で済ますことが増えていた。

もちろん自分で作れば体にいいものができるとは限らないが、カップ麺よりはマシだと思う。

 

そこで自炊の基本に立ち帰るべく、こんな本を読んでいる。

瀬尾幸子『みそ汁はおかずです』(学研プラス、2017)

 

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自炊の基本はやっぱりご飯とみそ汁だ。

 

レシピ本なので、読むというよりはパラパラと眺めていると言った方がいい。

いろいろな具材の組み合わせを見て、「うまそうだな。今度作ってみようかな」とか「いや、これはないわー」とか考えるのが楽しい。実際に作るかどうかはともかくとして。

人のために作るのなら気をつかうが、自分のためだけに作るのだから気楽なものだ。

みそ汁なんて、子どもの頃はたいしてうまいとも思わなかったけれど、うまいと感じるようになったのは歳をとったということだろうか。

ちなみに私の中でもっともベーシックというか、スタンダードな具の組み合わせは「豆腐+玉ねぎ+わかめ」です。

 

そういえば、かなり昔の漫画やドラマで、男性から女性への紋切型のプロポーズとして「君のみそ汁が食べたい」なんていう台詞があったけれど、今となってはパロディとしても古すぎて使えないだろうな。

むしろ「僕の作ったみそ汁を食べてください」の方が現代的(?)かもしれない。

いや、どうでもいいけど。

 

 

やねのねこ

 

ある時、家の座敷の方で突然ガタガタッという音が聞こえた。

地震か⁉︎ と思って身構えたが、揺れてはいない。風も吹いていない。

実家は私が小学生の時に改築したので、もう40年以上になる古い木造建築だ。あちこちガタがきているのだろう、ということでその時は納得した。

しかし、それからもたびたびガタガタッという音がする。木材の老朽化のせいというには不自然な音だ。ちょっと不安になる。

ちなみに座敷には仏壇がある。いや、だからどうしたというわけではないのだが、しかし……。

 

しばらくして原因がわかった。

ある日、座敷から何気なくガラス戸の外を見ていた。そのガラス戸から1メートルほど離れたところに松の木がある。その松の幹を、白い猫がするするっと登っていったのだ。そして家の方に伸びている枝の端にくると、そこから屋根に跳んだ! ガタガタッ。

なるほど、猫が屋根に着地した衝撃で音がしていたのか。

猫一匹の重さであんな大きな音がするのは問題だが、とりあえず原因がはっきりしてよかった。 

 

気にしていると、ごくたまにその白猫が屋根に乗っているのを見つけるようになった。

うちに来る野良猫はほかにも2、3匹いるはずだが、屋根に乗っているのはたいていその白猫のようだ。私が見た時たまたまそうなのかもしれないが、 屋根の上は彼(もしくは彼女)の縄張りなのかもしれない。うちの屋根なんだが。

 

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屋根の上の猫といえば、萩原朔太郎にこんな詩がある。 

                 

  まつくろけの猫が二疋、

  なやましいよるの屋根のうへで、

  ぴんとたてた尻尾のさきから、

  糸のやうなみかづきがかすんでゐる。

  『おわあ、こんばんは』

  『おわあ、こんばんは』

  『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』

  『おわああ、ここの家の主人は病気です』

            萩原朔太郎「猫」(下線は原文では傍点)

 

ただこれだけのたわいもない詩だが、なぜか妙に頭に残っている。たしかに猫は「おわあ」って鳴くよな。

うちの屋根の上にいる猫には、屋根の下にいる人間がどう見えているだろうか。

 

『おわああ、ここの家の主人は病気でもないのに、一日中布団の上でゴロゴロしています』

 

 

三寒四温

 

朝起きると、といっても10時ごろだったが、雪が積もっていた。

3、4日ほど前は、ちょっと動くと汗ばむぐらいの陽気で、このまま春になりそうだなと思っていたのに、いまさら雪だと言われても……。

こういう寒暖差はつらい。

起きた時からずっと軽い頭痛がしていて、いつものように4分の1の大きさに切ったサロンパスをこめかみに貼り、おでこに冷却シートを貼って、その上からタオルで鉢巻をしている。

これも季節の変わり目だからだろうか。それとも別の理由があるのだろうか。とりあえず季節のせいにしておこう。

 

三寒四温というぐらいだから、暖かい日と寒い日が交互にやってきて春に近づいていくのはわかるけれど、今年はとくに「寒」と「温」の差が大きいような気がする。

気温の上がり下がりが激しくて、まるでジェットコースターのようだ……という比喩を使おうと思ったら、ジェットコースターなんてもう30年は乗っていないことに気付いた。今後の人生でジェットコースターに乗ることはたぶんもうないんだろうなと、唐突に思う。

 

三寒四温という言葉を思い出すと、自動的に谷崎潤一郎の『細雪』を思い出す。

谷崎はもともとその小説に「三寒四温」というタイトルを考えていた、という話を何かで読んだことがある。

細雪』を読んだのはいつのことだったか。

たぶん無職でぶらぶらしていた20代のころだったような気がする。そのくらい時間に余裕がある時でないと、ああいう小説は読めないかもしれない。

でもあの頃は、時間に余裕があるのとは逆に、精神的な余裕はなかったはずで、そんな時にあんな小説が読めただろうか、とも思う。

まあ、とにかく一度読んだことは確かだ。内容はほとんど覚えていないけれど。

 

ジェットコースターには二度と乗らなくてもいいが、『細雪』はもう一度読んでみたい。