何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

「いま」を生きる

 

ここ10日ばかり、いつも利用している動画配信サービスで集中的にアニメけいおん!を見ていた。

 

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けいおん!』は、女子校の廃部寸前の軽音楽部に入ってバンドを組んだ唯、律、澪、紬の4人(のちに後輩の梓が入部して5人になる)の日常をゆるめに描いた物語で、1期・2期合わせて彼女たちが卒業するまでの3年間が描かれている。

練習よりも音楽室でお茶をする時間の方が長く、いわゆる「上を目指す」感じの熱いバンドではないけれど、学園祭などのイベントで活躍している。(最後の学園祭の後は泣ける)ちなみにバンドの名前は放課後ティータイム

 「ゆるい日常」だけれど、不思議と充実感がある。

見てると元気になれるような、いい作品だった。

 

少し青くさいことを書く。

画面の中で活きいきとしている彼女たちを見ると、

(俺は毎日を精一杯生きてきただろうか? 「いま」を精一杯生きているだろうか?)

という気がしてきて、少し苦い気分になる。後悔と嫉妬のブレンドのような感情。

人生も黄昏時に入ったオッさんが考えるには、あまりに青くさく、気恥ずかしいことだが、そんな気分になる。

自分のくたびれた「いま」が情けなく感じられる。

しかし過去を悔やんでも、他人を羨んでもしかたがない。

人は自分自身の「いま」を生きることしかできない。

 

人間には過去や未来という観念があるけれど、実際に生きられるのは「いま」しかない。

過去を懐かしむことはできるけれど、過去を生きることはできない。

    思い出なんていらないよ

    だって“今”強く、深く愛してるから(放課後ティータイム『No,Thank You』)

未来を夢見ることはできるけれど、未来を生きることはできない。

              約束なんていらないよ

    だって“今”以外、誰も生きれないから(同上)

たえず生じては消えていく「いま」を生きるしかない。

彼女たちが魅力的なのは、その「いま」を全力で生きている感じがするからだ。

    ハッピーはいつだってね“今”感じるもの

    生きろ乙女 本能で、裸の(放課後ティータイム『Utauyo‼︎ MIRACLE』)

俺は乙女じゃなくて、オッさんだけどな。

 

さて、生きるとするか。 

 

 

この「いま」は消えてなくなっちゃうんだね

だから切ない

だから愛しい 

 

 

500円玉

 

ジュースを買おうと思って、自動販売機に500円玉を投入した。すると、釣り銭受けにそのままカコンと落ちてきた。まあ、ときどきあることだ。

気を取りなおしてもう一度投入。またカコン。

もう一度。カコン。

落ちてきた500円玉をよく見ると、500円玉は500円玉でも、旧500円玉だった。

 

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500円玉が初めて登場したのは1982年(昭和57年)、私が13歳のときだ。
いまの若い人にはピンとこないだろうが、それまで500円は紙幣だった。(肖像は岩倉具視) 

紙幣から硬貨への変更は、なんとなく「格下げ」ような印象を受けたことを覚えている。「ありがたみ」が薄くなったというか。

しかし、硬貨で500円という金額は 、世界的に見ても高額なものらしい。

たとえばアメリカだと硬貨の最高額は1ドル(現在約105円)だ。イギリスでは2ポンド(約270円)、ユーロでは2ユーロ(約245円)で、(物価の違いはあるにしても)いずれも500円よりかなり低い。(しかも1ドル硬貨、2ポンド硬貨は実際にはあまり流通していないらしい)

 

しかし、その高額なところが仇になって、偽造事件が頻発する。自動販売機のお金の返却機能を使って偽物と本物を入れ替えるという手口だ。

そこで2000年(平成12年)、新しい500円玉が発行される。

基本的なデザインは変わらないが、偽造詐欺を防ぐための工夫が施されている。また材質(合金の割合)自体も違っている。

自動販売機もそれに対応したものになり、その識別機能も年々向上している。

で、その結果、現在では旧500円玉が使える自動販売機が少なくなっているーーということらしい。(以上、Wikipedia参照)

 

実際私もいくつかの自動販売機で試してみたのだが、どこも使えなかった。

ついでにセルフのガソリンスタンドと、スーパーのセルフレジでもダメだった。

本当に使いにくい。

こうなるともう店員さんがいる普通のレジで使うしかないけれど、最近はスーパーやコンビニのレジも、機械が自動的に金額を読み取るタイプのものになっている。

ちゃんと旧500円玉をカウントしてくれるだろうか? もしカウントされなかったら、なんか気まずいなあ……。

結局、旧500円玉はいまも財布の中にある。

 

 

 

自分の「おいしい」を探して

 

稲垣えみ子『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』(マガジンハウス、2017)を読んだ。

 

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帯には「準備は10分」とか「1食200円」などと書かれているので、時短料理や節約料理を紹介する本かと思ったら、それだけではなく、これは一つの「生き方」についての本でもあった。

 

著者は原発事故の節電をきっかけに冷蔵庫のない生活を始める。

すると料理がどんどん簡単になっていき、最終的に「飯・汁・漬物」を基本にした超シンプルな食生活にたどり着く。しかもこれがおいしくてまったく飽きず、毎日ご飯が待ちきれないという。

 

もともと料理が好きだった著者は、たくさんのレシピ本を読んで、さまざまな食材や調味料をそろえて手のこんだ料理を作っていた。いわゆるグルメ情報もせっせと集め、休日にはあちこちにおいしいものを食べに行っていた。

それが冷蔵庫なしの生活をするうちに、過剰な「おいしい」に疑問を持つようになる。 

珍しい味、美味しい味の向こう側には、さらに珍しい味、美味しい味の世界が尽きることなく広がっていく。

 その「過剰な世界」のことを私たちは「ごちそう」と呼んできたんじゃないでしょうか。そして多くの人が、食べ物ではなく、情報を食べている。本当に美味しいかどうかを感じることなく、美味しいと言われたものを食べることそのものに喜びを感じているんじゃないでしょうか。(p.50、下線は引用者による)

そしてレシピ本や多すぎる調味料、調理道具を手放し、前述の超シンプルな食生活に至る。

言わば食の断捨離、食のミニマリズムといったところか。

 

著者は「料理は自由への扉だ」と言う。

 だから自分で自分の人生を歩きたければ、誰もが料理をするべきなのである。男も、女も、子供も。自分で料理をする力を失ってはならない。それは自らの自由を投げ捨てる行為である。(p.268) 

「自由」は少しおおげさかもしれないが、自分が食べるものを自分で作れるというのは、自信や自立にはつながると思う。

料理は誰かが嫌々やらされる〈義務〉ではなく、一人ひとりの〈権利〉なのだ。

 

それでは著者の真似をして、超シンプルな食生活をすれば私たちも充実した生活を送ることができるのかといえば、必ずしもそうとは言えないだろう。それではグルメ情報を鵜呑みにするのと同じことだ。

著者はあくまで自分で自分の「おいしい」を探した結果、今の食生活にたどり着いた。

いろいろな意見を参考にしながらも、結局は自分自身で探さなければ意味がない。

 

それはもちろん「おいしい」に限ったことではなく、「うれしい」や「たのしい」や「おもしろい」についても言えることだ。

それを自分で探す人こそが生活を、人生を楽しむことができる。

 

 

夢の中の短歌

 

明け方、こんな夢を見た。

 

体育館のようなところにいる。

その真ん中に折りたたみの長机が2つ置いてあり、人が5人ずつ向かい合って座っている。私は一番端にいる。

何かのイベントみたいだが、観客・聴衆はいない。

とうとつに司会のような人が現れて、説明を始める。

どうやらこれは短歌を作る会合らしい。

今回は趣向を変えて、5人で1つの短歌を作ります、と司会は言う。2組それぞれ5人のリレー形式で五七五七七の一首を作る。短歌というより連歌みたいなものか。そうしてできた短歌の優劣を競うという遊びだ。(誰が判定するのかはわからない)

まずは1回戦ということで、とりあえず今座っている順番で作ることになる。私は末席に座っているので、アンカーというか、結句の担当になる。

なんだか難しそうだなあと思う。

実は私はそこそこ名前を知られた小説家で(という設定に突然気づく)、短歌に関しては素人だ。他の9人はこの短歌の会(結社?)に所属している。今回はゲスト参加という形でこの会合に呼ばれている、らしい。

最初のお題は「手紙」です、と司会は言う。

では始めてください。

 

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私はアンカーなので、前の人たちが作ってくれないことにはどうしようもない。だから机に着いたままじっと待つ。

しかし、待てど暮らせどいっこうに順番が回ってこない。

どうしたのかと様子を窺うと、まだ最初の人がうんうん唸っている。やれやれ、いつになったら私の番になるのか。なぜか机の長さも倍に伸びている。隣の4番目の人は痺れを切らしてタバコを吸いに行った。

あんまり手持ち無沙汰なので、先に自分一人で一首作ることにする。

テーマは「手紙」……。すっと頭に歌が浮かんでくる。

 

桜咲きやがて散りゆくはなびらは

春の便りの前略草々

 

できた、と思ったところで目が覚めた。

 

最近短歌に興味があるので、こういう夢を見ることは不思議ではない。

しかし、夢の中で詠んだ短歌を目が覚めた後も完全に覚えているというのは珍しい。いつも夢自体を忘れてしまうのに。明け方の夢だったからだろうか。

夢の中のことだから、オリジナルではなく昔読んだ誰かの短歌や詩や小説がベースになっている可能性もあるけれど、ちゃんとそれっぽい短歌に仕上がっている、ような気がする。(まったく季節はずれだけど)

ひょっとすると、夢の中のほうが頭冴えてる?

 

 

ブログのタイトル

 

いまさら言うのもなんだけど、このブログのタイトル『何を読んでも何かを思いだす』は、ヘミングウェイの短篇小説「何を見ても何かを思いだす」から借りている。

実際にブログを始める前から、「もしブログをやるなら、こういうタイトルにしたいなあ」と考えていた候補がいくつかあって、その中のひとつがこれだった。(でも小説自体は未読)

けっこう気に入っているので、変えようと思っているわけではないのだが、もし変えるならどんなふうにしようかとはしょっちゅう考える。要するに、タイトルを考えるのが好きなのだ。

そうしているうちに良さそうなのを思いついて、衝動的にそっちに変えてみようかと思ったりもするが、ひとつのタイトルで長く続けていくのも渋いかなと思い直す。

まあ、他人から見ればどうでもいいことだろうが。

 

他人のブログのタイトルを見るのも好きだ。

はてなのグループで新着記事の一覧があるけれど、ブログのタイトルだけ眺めていても楽しい。

わかりやすさ第一のストレートなものもあれば、ひねりが効いてて上手いなあと思うものもある。なかには、ひねり過ぎて腰でも傷めたのかと思うような不思議なものもあるが、そういう変な(失礼)タイトルのブログは、記事もやっぱり個性的なものが多い。

タイトルはブログの看板なので、それを見ればそのブログの考え方がわかる……ような気もするが、実際には、どういう理由でそういうタイトルにしたのだろう? と思うこともよくある。大きなお世話なのだが。

 

あ、ひとつだけ今のブログのタイトルで不都合なことがあった。

「何を読んでも」というほど読んでいない。

最初はガチガチ硬派な読書ブログのつもりで始めたのだが、いつのまにかご覧の通りのユルユル雑記ブログに。

看板に偽りあり、と言われないように、もうちょっとがんばろう。

 

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台風一過

 

どうにか台風をやり過ごした。 

今回の10号は接近前からその大きさ・強さが尋常ではないと言われていたので、基本のんきな私もちょっと心配だった。

と言いながら、これといった準備もしていない。せいぜい数年ぶりに雨戸を閉めたぐらいのものだ。

 

どうも私はこういう災害に対する危機感が鈍く、対策や準備というものができない。

だから台風上陸の2日前にスーパーからパンと水が消えたときにはあせった。

台風のための備蓄ではなく、ただ明日の朝食べるパンが欲しかったのだが。

すっからかんになった棚を見ると、なんだか寒々とした気持ちになった。

買いそびれた負け惜しみでいうわけではないが、なにもそんなにみんな一斉にパンばかり買わなくてもいいじゃないかと思う。

仕方がないので、かわりに4個入りのどら焼きを買って帰った。朝からどら焼きは重いけど。

ふと、あの有名な言葉を思い出す。

 

 「パンがなければお菓子を食べればいいのに」

 

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私が住んでいるところでは、台風による被害はほとんどなかったようでほっとした。

というか、前評判(?)の割にはそこまで風雨が強くなかったような気もする。むしろその前の9号の方が怖かったような。

ニュースによると、その9号の影響で海水面の温度が下がり、その結果10号の勢力が削がれたということらしい。結果オーライということか。

しかしそれでもやはり多くの人が被害を受けたわけだが。

 

私はこれまでの人生で、災害で大きな被害を受けたことがない。

3年前の豪雨災害のときも、同じ町内で多くの家が床上浸水したにもかかわらず、私の家はほとんど無傷だった。

立地とか、いろいろ理由はあるのだろうが、私はそれを単に「運」がいいからだと思っている。

しかし、仮に自分が被災した時、それをただ「不運」として受け入れられるかといえば、それは難しいような気がする。災害ばかりでなく、不意の事故や病気もそうだ。

「幸運」は喜んで受け入れるが「不運」は受け入れ難い。

 

なんでもかんでも「運」で済ますわけにはいかないが、それでも「運」とか「偶然」とか、人間にはどうすることもできないことは確かにあって、しかしそれを受け入れることは簡単ではないので、その「責任」を肩代わりさせるために〈神仏〉がつくられたのだろう。

 

なんだか余計なことを考えてしまったな。

これも台風の後遺症だろうか。

 

陋屋もいまだ潰れず野分あと

 

 

メガネ初心者

 

今年は運転免許の更新の年だった。

私は優良(ペーパー)ドライバーなので簡単な講習だけでいいのだけれど、今回はちょっと問題があった。視力検査だ。

5年前の前回でも視力がギリギリ(0.7)だったので、次はこのままじゃ無理かなとは思っていたのだが、タブレットを使うようになってさらに視力が落ちてきた。これでは確実に更新不可だ。

ということで、更新の前に生まれて初めてメガネを買うことにした。

 

もともと小学校の低学年の頃はあまり目が良くなくて、いずれメガネが必要になると自分も親も思っていたのだが、どうしたわけか視力が回復し、高学年の頃には左右とも1.0ぐらいになっていた。

大人になってもその状態が続いていたのでメガネとは無縁の生活をしていたけれど、最近は寄る歳なみには勝てないというか、体の経年劣化にしたがって冒頭に書いたようなことになっていたのだ。

 

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どの店でもよかったのだけれど、とりあえず一番最初に思いついた、市内のイオンに入っている某メガネ屋に行ってみる。

なにをどうしていいのかわからないので、店員さんにメガネ初心者であることを告げて、おすすめのフレームをいくつか持ってきてもらう。

試着して鏡を見るが、どれもピンとこない。そもそも自分の顔にメガネがかかっていること自体に違和感があるので、どんなメガネでも変な感じに見える。

しかし買わないわけにもいかないので、まあいいかと地味な感じのものを選ぶ。

そのあと視力検査をしてレンズを合わせてもらい、その日のうちに受け取ることができた。

あとからネットでメガネの相場みたいなものを調べてみたけれど、私が買ったのは、安いわけではないが高いというほどでもない感じの、メガネとしてはまあ普通の値段のもののようだった。

 

極度のめんどくさがりの私としては、メガネなんてめんどくさいなあと思うのだけれど、その一方で、メガネに対するちょっとした憧れのようなものも持っていた。

普通にメガネをかけている人は笑うかもしれないが、「メガネをかけると知的に見える」というベタな幻想だ。

だからメガネをかけた自分の顔に期待(?)していたのだが、鏡に写った顔は知性が増したようには見えず、むしろ胡散臭さが増したような……。

オッさんがメガネをかけても、みんなジャン・レノみたいになれるわけではないのだね。(厚かましい)