何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

続・明日は我が身

 

前回の記事で老人は賃貸住宅が借りにくいということに触れたのだが、もう少し具体的なことが知りたいと思っていたところ、こんな本を見つけた。

太田垣章子『老後に住める家がない! 明日は我が身の“漂流老人”問題』(ポプラ新書、2020)

 

f:id:paperwalker:20200130230636j:plain


著者の太田垣章子(ふみこ)さんは司法書士で、賃貸住宅をめぐるトラブルを多く扱ってきたが、特にその対象が70代以上の老人だと大変らしい。

最初に断っておくと、この本は基本的に物件の管理会社や家主といった「貸す側」の視点から書かれている。司法書士に相談を持ち込むのは主に「貸す側」だからだ。

その相談は、老人の入居者に関していえば、孤独死の後始末だったり(家賃の滞納や物件の建て替えのための)退去をめぐるトラブルだったりする。この本を読むと、こうした案件でいかに「貸す側」が大変かということがわかる。

 

たとえば孤独死

賃借人(借り手)が孤独死した場合、早期に発見できて、保証人などに連絡がついて後始末に協力してもらえるならまだいい方だ。(それでも物件の価値は下がるが)

保証人はもちろん、その他の身内の所在もわからなければ、後始末は管理会社や家主が自腹でやらなければならない。

この本で初めて知ったのだが、賃貸借契約も相続の対象になる。だからもし賃借人が契約期間中に亡くなったのなら、その権利は遺産相続人に引き継がれるので、家主といえども勝手に契約を解除したり遺品を処分したりできない。だからまず相続人を探すところから始めなければならない。(そこで司法書士の出番になる)

相続人にコンタクトを取って、同意を得るなり相続放棄してもらうなりして初めて動けるのだ。時間も手間もお金もかかる。

 

退去トラブルも面倒だ。

例えば建物の老朽化のために退去をお願いしても、話をまともに聞いてくれないこともある。(賃借人の方も、老人の身で気力や体力が必要な引っ越しなどしたくないのもわかるが)

しかし、賃借人の方に非がある家賃滞納の場合でも、退去させるのは大変だ。最悪の場合、裁判になって強制執行ということになるのだが、賃借人が老人の場合はそれが難しくなる。まだ若い人ならともかく、次の住居が決まっていない老人を追い出すわけにはいかず、判決は出ても執行不可能だと判断される場合がある。そうなるともうどうすることもできない。

だから場合によっては「貸し手」の方で次の住居(施設なども含めて)を探してやらなければならなくなる。

実際に著者は多くの案件で退去してもらった後の住居探しに苦労している。(というか、たぶん普通の司法書士はそこまでやってくれないのではないか?)

 

孤独死にしても、退去トラブルにしても、「貸し手」にとっては(金銭的にも精神的にも)大きなダメージで、そのリスクをできるだけ回避するために高齢者には部屋を貸したくないのだ。

私は前回の記事で、業者や家主も柔軟に対応してほしいと書いたが、事情を知らずに簡単には言えないなと反省している。

 

老人になると部屋が借りにくくなるのなら、老人になる前に手を打たなければならない。

著者は遅くとも60代のうちに「終の棲家」を準備しておくべきだという。

だから、賃貸住宅にずっと住んでいる人も、持ち家はあるけど老後はそれを売って賃貸に入ろうとしている人も、せめて60代後半までには、自分の荷物や財産などをきちんと整理して、これくらいの家賃なら一生払えるなっていう終の棲家を見つけて、出来るだけ早いタイミングでそこに引っ越しておくことがとても大事だと私は声を大にして言いたいんです。(p.131)

 

物より「助けて」と言える人脈を財産とする、身軽になっておく、そして把握するのです。自分の資産がいくらで、この先の医療費も含めてどれくらいの費用が必要で、月どれくらいが使えるのか、まずはしっかり可視化することです。その上で、自分の年齢、家族構成、環境を考慮して「住活」する。「その時がくれば……」は、もう動けなくなる時です。せめて60代で、残りの人生の再設計をする、これが必要なのだと賃借人から私は学びました。(p.236)

 

私はいま50歳だが、あっという間に60歳になるだろう。

前回の記事と同じ結語だが、あえてもう一度書こう。

明日は我が身か……。

 

 

明日は我が身

 

先日こんなニュースを読んだ。 

headlines.yahoo.co.jp

簡単に要約すれば、不動産業者や家主は、一人暮らしの老人に部屋を貸したくないということだ。

一番の問題はやはり孤独死で、すぐに発見されなかった場合や、遺体や遺品の引き取りでもめるケースなど、業者にとっては面倒なトラブルになる。

また、入居時はなんともなくても、長く入居しているうちに認知症になったり、ほかの病気で一人で生活することが困難になったとき、(身内も含めて)サポートしてくれる人がいないと困ったことになる。

業者や家主はそういうトラブルを避けたいので、どうしても老人には部屋を貸し渋る。

それもわからなくはないけれど、借り手の側としては死活問題だ。

私はいま実家の持ち家に住んでいるけれど、将来的には実家をたたんで引っ越す可能性がある。他人事ではない。

「独居老人」はこれから確実に増えていくと思われるので、業者もそこをなんとか、もう少し柔軟に対応してもらいたい。

 

f:id:paperwalker:20200125131711j:plain


私は実家に戻ってくる前は、とある地方都市で一人暮らしをしていた。

同じアパートに20年ぐらい住んでいたのだが、一時期、隣の部屋に70代ぐらいのおじいさんが独りで入居していたことがある。

隣人といってもまったくつきあいはなく、階段ですれ違うときに軽く挨拶をする程度の関係だったので、どういう人なのかはまったくわからない。まあ、アパート暮らしはそんなものだと思っていたので気にもならなかった。

ある日、チャイムが鳴ったのでドアを開けるとそのおじいさんが立っていて、部屋に入れてくれないかと言う。

相手の真意を測りかねて困っていると、ちょっと言いにくそうに、実はアパートの管理会社にドアをロックされて部屋に入れなくなったのだという。それで私の部屋からベランダ伝いに自分の部屋に入りたいというのだ。(ちなみにアパートは3階建てで、私たちの部屋は3階だ)

ベランダには部屋と部屋の間に薄いパーテーション(間仕切り板)があるのだが、前年の台風の時に何かがぶつかって下の方が割れて穴が開いている。本来なら管理会社に連絡して修理してもらうべきだったが、私は(たぶん隣人も)めんどくさくてそのままにしてあった。その穴を通って自分のベランダに行き、そこから室内に入るつもりらしい。

しかし、たしかに穴は開いているが、子どもならともかく、いくら痩せていても大人が潜り抜けるのは無理だと思われた。

私はそう言って、でも一応試してみますか? と(やんわりと)尋ねると、隣人はちょっと難しい顔をして「いや、やっぱりいい。すいませんでした」と言って帰っていった。自分でもちょっと無理があると思ったのだろう。

結局、管理会社に泣きを入れて開けてもらったようだ。

本人から直接聞いたわけではないけれど、閉め出しをくった原因はやはり家賃の滞納なのだと思う。

それから間もなくおじいさんは引っ越していった。たぶん退居させられたのだろう。

 

私はまだ若かったので、その一連の出来事に対して特になにも思わなかった。いや、正直に言えば、「歳をとってああはなりたくないな」という蔑む気持ちがあった。

しかし50歳になったいま、あのおじいさんはあの後どうしたのだろうと気にかかる。新しいアパートを探すのも簡単ではなかったはずだ。70を過ぎて住むところを失うなんて辛すぎる。誰か力になってくれる人がいたのならいいが。

ついつい未来の自分の姿を重ねてしまう。

明日は我が身か……。

 

 

「俺は長男だから……」

 

いつも利用している動画配信サービスで、いま鬼滅の刃を再配信している。

リアルタイムの時には、そのおもしろさに気付くのが遅れて、終わりの方の3、4回しか見ることができなかったので、いま毎日楽しみに視聴している。

漫画の方は買うかどうか検討中。いま買うと、いかにも流行りものに乗っかりました、みたいな感じがして、それがちょっと癪にさわる。

それに、単行本はいま18巻まで出ているので、これを全部新刊で買うとそれなりの金額になる。そのお金をどうするか、脳内予算委員会で激しい議論が続いているが、まだ解決策が見出せない。しかしこのままでは、与党(買う方向)が強行採決で押し切りそうな感じだ。

 

f:id:paperwalker:20200124113737j:plain


そのアニメの第12話で、とても印象的な台詞があった。

炭治郎は鬼と戦っているのだが苦戦している。敵が強いのはもちろんだが、炭治郎は前回の戦いの負傷が完治しておらず、ちょっとした動きでも体に激痛がはしる。それでもずっと我慢して戦っている。そして弱気になりそうな自分を鼓舞する台詞の中に、次のような言葉があった。

 

「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」

 

非現実的な戦いの最中に急に「長男」なんていう現実的な言葉が出てきてちょっと意表を突かれた。と同時に、いかにも炭治郎らしい台詞だと思って感心した。

 

物語が始まった時点で炭治郎の父はすでに他界していて、 彼は母と弟妹たちと暮らしている。炭治郎は長男で当時13歳。その下には長女の禰豆子(ねずこ)を含めて2人の妹と3人の弟がいる。炭治郎は父の跡を継いで「炭焼き」をして家族を支えている。まだ13歳だというのに一家の大黒柱であり、幼い弟妹にとっては父親がわりでもある。

炭治郎自身それを充分に自覚している。責任感の塊のようなやつだ。

生活は楽ではないが、一家はつつましくも幸せに暮らしていた。そんな家族が、炭治郎の留守中、一夜にして鬼に惨殺される。ただ一人生き残った禰豆子も鬼にされてしまった。炭治郎は禰豆子を人間に戻すため、これ以上自分たちのような不幸な人間をつくらないために「鬼殺隊」(鬼狩り)に志願する……という物語だ。

 

実は私も長男だ。ただし、上に2人の姉がいる末っ子の長男である。このあたりの家族構成については以前少し書いたことがある。 

paperwalker.hatenablog.com

要するに、末っ子の長男として、過保護に甘やかされて育ったという話だ。

同じ長男でも炭治郎とは正反対だといっていい。炭治郎は「長男だから」という理由でがんばれるやつだ。

私は長男として優遇され、その特権を充分に享受していたにもかかわらず、「長男だから」という言葉が重苦しくてたまらなかった。いまだってそうだ。

私にも弟や妹がいれば、長男としてもっと責任感のある人間になれただろうか? そう思ったりもするが、まあ、そういうわけでもないか。

だから私には、はるかに歳下の炭治郎がちょっとだけまぶしい。

 

 

「問い」を見つける

 

高校まではよく勉強していたと思うが、大学に入ってからはあまり勉強したという実感がない。

といっても、遊びまわっていたわけではない。高校までの「勉強」と、大学以降のそれとでは性質が違うから、同じこととは思えないのだ。

 

高校までの勉強は基本的に試験のためのものだ。それは誰かが与えた「問い」に対して「答え」を出すという形式になる。

しかし大学での勉強は、まず自分で「問い」を見つけるところから始まる。自分が勉強したいことの具体的なテーマを探すといってもいい。

もちろん助言をしてくれる先生はいるし、それぞれの分野には先行研究があるわけだから、まったくの〈無〉から自分のテーマを立ち上げなければならないわけではない。それでも自分から動かなければ何も始まらない。

高校までの勉強が「受動的な勉強」だとすると、大学以降のそれは「能動的な勉強」といえるかもしれない。

 

f:id:paperwalker:20200119111355j:plain


自分で「問い」を見つけることは、与えられた「問い」に答えることよりもめんどくさいし、ある意味難しい。しかし圧倒的に楽しい。高校までの勉強がつまらないからといって、勉強そのものがつまらないと思うのは早計だ。

大学に行ってないから(あるいは、卒業したから)そんな「問い」なんて関係ない、というわけではない。仕事はもちろん、日常生活の中にだって「問い」はいくらでも転がっている。ただ気がつかないだけか、気がついてもすぐに忘れてしまうだけだ。

その「問い」をおもしろいと思い、考え始めることができれば、そこから新しい世界が開ける(かもしれない)。

 

「問い」は一つだけでは終わらない。一つの「問い」が別の「問い」を呼び、また別の「問い」につながっていく。

問うことを学ぶと書いて「学問」だ。

ついでに言えば、何かを知れば知るほど知らないことが増えていく。逆説的だが本当のことだ。

だから学ぶことに終わりはない。

 

 

今週のお題「私の勉強法」

はてなブログ特別お題キャンペーン #学び応援WEEK

はてなブログ特別お題キャンペーン #学び応援WEEK
by ギノ

終わりよければ

 

昨年末、とても興味深く読んだ記事がある。 

news.denfaminicogamer.jp 

『ジャンプ』の編集長OBである鳥嶋和彦さんと矢作康介さんを含めた座談会で、『ジャンプ』に関する裏話や漫画論が盛りだくさんでおもしろく、また考えさせられる。

なかでも一番印象的だったのは鳥嶋さんのドラゴンボールをめぐる発言だ。

ドラゴンボール』は、いわゆる「黄金期」の『ジャンプ』の看板作品だったわけだが、それゆえに作者が自分の意思で連載を終了することができなかった。

鳥嶋さんは、「魔神ブウ篇」はやらせるべきではなかったが、自分は別の雑誌にいたのでどうすることもできなかったと言う。

「鳥山君を助けてあげられなかったのは、今もって悔いている」

とまで言っている。

 

人気が出れば出るほど簡単に連載をやめることはできなくなる。

いくら作者が終わらせたい、作品のためには終わった方がいいと思っても、編集部の方で終わらせてくれない。雑誌のためには一回でも長く続けさせたいわけだし、アニメやゲームといった要素が絡んでくるとさらに事情は複雑になる。

この辺りのことはバクマン。でも詳しく描かれている。(本当に教科書みたいな漫画だな)

 

f:id:paperwalker:20200114214551j:plain


 「終わるべき時に終われなかった漫画」として真っ先に頭に浮かぶのは北斗の拳だ。

レジェンド級の漫画ではあるが、終わりの方は酷かった。

ラオウを倒した時点で終わっていれば完璧な名作になっていたはずだ。百歩譲ってカイオウを倒した時点でもいい。しかしその後がいけない。

まったく唐突にラオウの息子が登場し、しかし、あまりパッとしないとみるやあっさり退場。挙句の果てに、ケンシロウを記憶喪失にしてその「強さ」をリセットしたりと迷走を重ねたうえに、取ってつけたようにリンとバットをくっつけて終了してしまった。

あの当時、読者はみんな思っていたはずだ。

「『北斗の拳』よ、お前はもう死んでいる!

 

連載を始めることも難しいのだろうが、きちんと終わらせることもまた難しい。

終わり方次第で名作が「迷作」になることもある。

さて、『ワンピ……いや、なんでもありません。

 

 

ブックオフ事情

 

今年もすでに2週間過ぎてしまった。早い。早すぎる。

そういえば、今年もブックオフの「ウルトラセール」に行かなかった。

今年は時間もあったし、天気も良かったので行くつもりだったのだが、当日になって気持ちがグズグズになって結局行かなかった。セールだけでなく、最近は店自体にあまり行かなくなったような気がする。

 

f:id:paperwalker:20200113154712j:plain

 

私が初めてブックオフに行ったのは今から30年ほど前、大学に通っているときだった。

そのとき住んでいた地方都市にできた最初のブックオフだった。

当時すでに古本に興味を持っていて、市内にある古本屋に行くようになっていた。その頃その市にあった古本屋は、老舗と呼べるような店が2軒と、あとは普通の中古本を扱う小さな店が数軒、そしていわゆる郊外型の大型古本屋が2、3軒といったところだった。

ブックオフ」という新しい古本屋ができたらしい、という話をどこかから聞いてさっそく足を運んだ。

そこは外観からして従来の古本屋とは違っていた。

たぶんその前は別の業種の店が入っていたであろう店舗は、まず大きく(といっても中型店ぐらい)、そしてきれいだった。いまではすっかりお馴染みになった大きな「本」の看板が目をひいた。

店内も違っていた。とにかく明るい。音楽が流れている。まるで新刊書店だ。(当時からあの〈こだま〉のような「いらっしゃいませ」の連呼があったかどうか、覚えていない)

さらに驚いたのがその値付けで、とにかく百均本が多い。老舗の古本屋にも均一の棚やワゴンがあるけれど、量が比べものにならない。本自体はありふれたものが多いものの、なかには「これが100円⁉︎」と思うような本も混じっている。本の内容ではなく、古さと状態だけでオートマチックに値段をつけるのでときどき掘り出し物がある。宝探しというよりは、川で「砂金」を採っているような感じだ。

漫画の立ち読みができるのもありがたい。

本が好きで、金はないけど暇はあるような人間にとっては恰好の遊び場だ。

その後、市内には5、6軒のブックオフができた。私は、それが仕事ででもあるように、暇に任せてすべての店舗を巡回していた。

 

10年ほど前、私は実家のある田舎に戻ってきた。

いま住んでいる市内にはブックオフはない。隣の市にある一番近い店舗でも原付で片道50分ぐらいかかる。遠いところでは1時間半ぐらいかけて行くこともある。

ネットを使っていなかった頃はそれでも頻繁に通っていた。しかし、ネットで本を買うことを覚えると、少しずつその頻度が少なくなってきた。もともとが出不精な人間なので、やむを得ないところはある。

しかし、あの「砂金採り」のようなおもしろさは、やはり実店舗でしか味わえない。

こんなことを書いていると、やっぱり店に行きたくなってくる。

ちょっとしんどいけど、次の休みにでも行ってみるかな。

 

 

鈴木さんの本

 

元日から早くも「古本病」の発作が起こり、ヤフオクでこんなものを買ってしまった。『百家短編集』と題した本が7冊と、『諸家説苑』と題した本が4冊、計11冊のセットだ。

 

f:id:paperwalker:20200109002511j:plain

 

私はネットで古本を買うとき、知らない著者や内容がよくわからないタイトルの場合は事前に検索をかける。だいたい国会図書館と「日本の古本屋」を見るのだが、上の二つの書名はどちらでもヒットしなかった。

見るからに古そうな本だし、なにより格別に安かったので、「まあいいか」と思って購入したのだ。

商品が届いて実物を見ると、検索にかからなかった理由がわかった。この本、個人が作ったオリジナルの本だったのだ。正確に言えば、複数の雑誌をバラして製本した「合本」である。(そういう可能性も考えなくはなかったが)

本の背には手書きの書名の下に「鈴木編」と書かれている。つまり鈴木さんが作ったわけだ。いい仕事してますな、鈴木さん。

 

元になっている雑誌は大正12、3年頃の『中央公論』が多い。そこに同時期の『改造』などほかの雑誌が混じっている。これらの雑誌の中から鈴木さんが気に入った作品、気になった記事を集めて作ったのがこの本だ。

『百家短編集』には小説や戯曲などの創作が集められている。そこでは芥川龍之介稲垣足穂が「現役」の作家として掲載されている。

 

f:id:paperwalker:20200109002717j:plain


もちろん芥川の作品は現在でも文庫本などで入手することができる。初出の雑誌で読んでも、いまの文庫で読んでも内容が大きく変わるわけではない。専門の研究者は別として、普通の読者がわざわざ古い版で読む必要はない。若い頃はそう思っていた。

いまも基本的には同じ考えなのだが、いまはその一方で、古い版で読む楽しみというか、独特の味わいのようなものも感じるようになった。まあ、単なるレトロ趣味なのかもしれないが。

 

もう一方の『諸家説苑』には、評論や随筆のようなものが集められている。実はこっちの方が興味深い。

松崎天民の「『どん底生活』の報告書」とか大泉黒石の「西伯利(シベリア)三界を迂路(うろ)つく」なんて、タイトルからしておもしろそうだ。

雑誌にはその当時の時代の空気というか、人々の気分のような、後世にはなかなか伝わりにくいものが込められている。

 

この鈴木さんが作った合本には、表紙や目次、広告といった不要なものははずされていて、ただ本文のページだけが綴じられている。そこがちょっと残念だ。古本好きとしては、雑誌もできるだけそのままの形で残してもらいたいところだ。

しかし、雑誌を読み捨てにせず、こうやって手間暇かけて製本する熱意も好ましい。

鈴木さんがどんな人だったのか、もちろんわかるわけがないけれど、鈴木さんが生きた時代に思いを馳せながら、ちびちびと読んでいくことにしよう。