何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

草の名前

 

田舎の生活でたいへんなことはいろいろあるが、これからの季節だと雑草の刈り取りもめんどうな仕事だ。

はっきり言って私はこういう仕事になんの興味も持てない。そして、興味がないことに対しては、小指一本動かすのも億劫という人間だ。

しかし私に興味があろうとなかろうと、雑草はぐんぐん伸びる。

まあ、家の外観が廃墟っぽくなるのはあまり気にしないが、いろいろと不都合なこともあるので、そろそろ重い腰を上げなければならない。

それでとりあえず庭に出て現状を確認するが、ふと、あることに気づく。

私はここに生えている植物の名前を何一つ知らない。

 

もともと私は植物の名前に詳しいわけではないけれど、アサガオとヒマワリの区別はつくし、梅と桜の違いもわかる。

 それに対して、庭に自生している植物はただ「雑草」としてしか認識していない。

ちょっと見ただけでも雑草にもいろいろ種類があるのはわかる。背が高いのもあれば、低いのもある。葉だけしかない(ように見える)ものもあれば、花をつけているものもある。

なかでも、背が高くて白い小さな花をつけている草が目立つ。

私は、せめてこの花の名前だけでも知りたいと思った。

 

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こういう時にもネットは便利だ。図鑑のかわりにもなる。

あれこれ調べていくうちに、この植物がヒメジョオンという名前だとわかる。

(注意 : ヒメジョオンとよく似た植物にハルジオンというのがあって、いくつか見分けるポイントがあるのだが、なにぶん私は素人なので自信がない。なので、この記事にあるヒメジョオンは、「ヒメジョオン(仮)」ぐらいの感じでよんでいただきたい)

ヒメジョオンは漢字では「姫女菀」と書く。「姫」は「小さい」を表し、「女菀」は「中国の野草」を意味するらしい。しかし原産地は北アメリカで、日本には1865年頃に観葉植物として入ってきたが、明治時代にはすでに雑草扱いされていたという。つまり、外来種として輸入されたのが繁殖して在来種を脅かすという、よくあるパターンだ。(この項、Wikipedia参照)

 

とはいえ、もちろんそれはヒメジョオンに責任があるわけではない。人間の責任だ。ヒメジョオンは生物として懸命に生きているだけだ。

こうやって名前や来歴を知ってしまうと、なんとなく情が移るというか、雑草として刈ってしまうのが忍びなくなってくる。

観賞用に人間に大事に育てられる植物と、こうして野に自生する植物と、その生命になんの違いがあるというのか?

華やかなバラやランよりも、この小さく可憐な花を愛する人間がいてもいいではないか。

 

……などと、甘っちょろい感傷に浸っていては田舎では生活できない。

このヒメジョオン、その可憐で清楚な花に似ず、なかなかどうして強い植物なのだ。

まずその背が高い。私の家に生えているものは総じて100cmぐらいはある。下の画像を見てほしい。

 

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(わかりにくいかもしれないが)真ん中に生えているヒメジョオンは特に大きく、なんと私の身長(170cm)とほぼ同じ高さなのだ。なんという逞しさ! いったいこの細い茎のどこにそんな生命力があるというのか。

さらにその繁殖力もすごい。一つの個体が47000以上の種子を生産し、しかもその種子の寿命は35年もあるという。このためヒメジョオンは「要注意外来生物」に指定されているほか、「日本の侵略的外来種ワースト100」にも選定されている。(Wikipedia参照)

ちょっと気を許せば、あっという間に生活空間が侵食されてしまう。

かわいい花に騙されてはいけないのだ。まさに「かわいふりしてあの子、わりとやるもんだねと」という感じだ。(若い人わかるかな?)

 

そういうわけで、私はこの雑草を情け容赦なく刈り取らなければならない……のだが、まだ6月だというのにはやくも夏バテ気味で、なかなか重い腰を上げることができずにいる。

やれやれ、雑草より人間の方がよっぽど脆弱だ。

 

 

 

父は軽トラに乗って

 

今週のお題「おとうさん」

 

私の家は農家だったので、家にある車は軽トラックだった。

 

私が小学生だった頃は当然まだ父も若く、米の他にいろいろな野菜も作っていた。

収穫した野菜は、袋や箱に詰めたり、束にしたりしてまとめ、それを軽トラの荷台に積んで隣の市にある市場まで運んでいく。

私はときどきその手伝いに市場までついて行った。手伝いといってもたいして役に立つわけではないが、私が軽トラの助手席に座ると父は少し嬉しそうで、家の中では聞いたこともない鼻歌を歌ったりしていた。作業が終わると駄賃をもらい、市場の中にあった自動販売機で甘いコーヒーを買って飲むのがお決まりの楽しみだった。

 

家にはそれ一台しか車がなかったので当然なのだが、どこに行くにも軽トラだった。

私もそれを当たり前だと思っていたが、ひとつだけ、たまに学校まで送ってもらう時は少し嫌だった。授業参観や運動会などで、他の父兄が来るような時はなおさら嫌だった。そういう時はちょっとだけ普通の乗用車(4ドアのセダン)に憧れた。

田舎のことなので、学校には農家の子どもも多く、軽トラはウチだけではないから「恥ずかしい」というほどの気持ちはなかったが、それでも他の子の家族が4ドアの車から降りてくるのがちょっとだけうらやましかった。(軽トラは当然2ドアの2人乗りだ)

要するに、子どもなりの「見栄」のようなものだ。

 

それからなんだかんだあって時間は流れ、私は長い間独り暮らしをし、それからやはりなんだかんだあって実家に戻った。

私は免許こそ持っていたが車は運転せず、移動はもっぱら原付バイクだった。実家に戻ってからもそれは変わらなかった。(田舎では車は不可欠なのだが)

だから家にある車はやはり父の軽トラ一台だけだった。

私は(雨の日で特に用事がある時など)父に車を出してもらったり、父の用事について行ったりで、子どもの頃と同じように軽トラの助手席に座った。

しかし子どもの頃とは少し感じが違う。

父の運転がちょっと覚束なく感じるのだ。

最初は気のせいだと思った。父の隣に座るのは久しぶりだし、自分も大人になって視線が高くなっているので子どもの頃の感覚とは違うのだろう、と。

しかし、何度も乗るうちに、やはり父の運転が危なっかしくなっているのだと思った。1、2度ヒヤリとするようなこともあった。それとなく注意しようかとも思ったが、なんとなく言い出しかねた。

 

ある日、仕事から帰る途中、家から数十メートル離れたところにある他所の家の倉庫の壁に、拳ぐらいの大きさの穴が開いているのを発見した。はて、昨日まではなかったはずだが、と思いつつ帰宅すると、父の車の同じくらいの高さの所にも傷がある。まさかと思ったが、どう見ても父の車が接触したとしか思えない。父に問いただすと、驚いたことに、接触自体に気づいていなかった。私は状況を説明し、一緒に倉庫の穴と車の傷を確認した。父は狐につままれたような顔をしていたが、一応納得したらしく、倉庫の持ち主の家に話をしにいった。(結局修理費を払うだけで話は済んで、揉め事にはならなかったが)

それからしばらくして、父の方から、免許を自主返納して車を廃車にするつもりだと言ってきた。私もそれが妥当だと同意した。その時の父は、困ったような寂しいような顔をしていた。数日後、私が仕事から帰ると、車はなくなっていた。

 

いま、父はもう亡くなっているが、あのとき免許を自主返納したのは(ちょっとおおげさだが)英断だったと思う。父の性格からすれば、意地になって乗り続けた可能性もあったし、そうなれば自分や他人を危険な目にあわせたかもしれない。

ただ、気のせいかもしれないが、車を処分した後の父は一気に老いが加速したような気もする。

まあ、なんにしても、いまとなっては父も軽トラも私の記憶の中にしかない。車庫として使っていた倉庫には、私の原付だけがポツンと置かれている。

 

以下、蛇足のことながら。

最近、高齢者の運転による事故が目立ち、免許の自主返納や、免許制度の見直しが話題になっている。

議論になるのは当然だと思うが、その場合、同じ高齢者でもある程度公共の交通機関が充実した都市部に住む人と、田舎に住む人とでは状況がまったく違ってくる。(高齢者に限らないが)田舎に住んでいるものにとって車は生命線、まさに命綱と言っていい。

もし、なんらかの形で運転を制限するような方向に議論が進むのなら、それに代わる生活の手段を合わせて考える必要がある。

車(の運転)はただそれだけであるわけではなく、 人の生活の一部だからだ。

 

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言葉のゆくえ

 

もう一編、寺山修司詩集』(ハルキ文庫、2003)から。(以下、全文)

 

 

    ひとりぼっちがたまらなかったら

 

私が忘れた歌を

誰かが思い出して歌うだろう

私が捨てた言葉は

きっと誰かが生かして使うのだ

 

だから私は

いつまでも一人ではない

そう言いきかせながら

一日じゅう   沖のかもめを見ていた日もあった

 

 

この詩を読んで、私は自分のブログのことを考える。

このブログに書いた言葉は、別に「捨てた」わけではないけれど、「誰かが生かして使」ってくれるだろうか?

もちろんそれは記事を引用してくれとか、記事を役に立ててくれとかいうことではない。(自慢じゃないが、人の役に立つ記事など書けやしない)

 

例えば……私は夢想する。

私のブログを読んでくれた彼(もしくは彼女)がいたとして、私の言葉は彼/彼女に咀嚼され、嚥下され、消化され、そのほとんどは「忘却」という形で排泄されるかもしれないが、その中のごくごく一部が(もはや原形さえとどめていないけれど)彼/彼女に吸収されて、同化して、彼/彼女自身も意識できないレベルでその言葉に、心に、魂に溶け込むことができたなら、そのとき私は彼/彼女の一部になることができるのだ。

うん、ちょっと気持ち悪いかな。しかし、他者が書いた言葉を読むということは、こういうことではないだろうか。

 

私はいつもひとりだけれど、私の言葉は誰かとともにある。

私はいつもひとりだけれど、誰かの言葉が私とともにある。

そう言いきかせながら(近くに海がないので)軒のつばめを見ています。

 

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家なき子の家

 

ある日、古本屋で何の気なしに寺山修司詩集』(ハルキ文庫、2003)を手に取る。

パラパラとめくっていると、一編の詩が目にとまる。(以下、全文)

 

 

    あなたに

 

書物のなかに海がある

心はいつも航海をゆるされる

 

書物のなかに草原がある

心はいつも旅情をたしかめる

 

書物のなかに町がある

心はいつも出会いを待っている

 

人生はしばしば

書物の外ですばらしいひびきを

たてて

くずれるだろう

だがもう一度

やり直すために

書物のなかの家路を帰る

 

書物は

家なき子の家

 

 

なんだかなぁ。ちょっと甘すぎるんじゃないの? 『少女詩集』の中の一編だからかな。それにさ、帰るところが書物だけっていうのはどうよ? ちょっと寂しすぎるんじゃない? ブッキッシュすぎるっていうかさ。

……と、精いっぱいケチをつけようとするのだが、くやしいけれど、私はこの詩を好きにならずにはいられない。

いったい、本が好きな人間で、この詩の魅力に抗しきれる人がいるだろうか?

 

さあ、私もまた家路につこう。

もう一度、いや、何度でもやり直すために。

 

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18歳までは雨の日が好きだった

 

今週のお題「雨の日の楽しみ方」

 

小学生の頃の私はまるまると太っていた。

ちょっと体を動かしただけで息を切らし、大汗をかいた。そんな子どもが最も苦手にしていたもの、いや、ほとんど憎んでいたといってもいいものが「体育」の授業だ。

 

サッカーやソフトボールなどの球技はまだいい。苦手なことにかわりはないが、それでも多少は楽しい気持ちになれる。しかし、水泳とかマラソンとか、要するに純粋に体を動かすだけのものは苦痛でしかなかった。

とりわけ私が最も憎み、かつ恐れていたのが鉄棒だった。

逆上りもダメだし、前回りもダメだ。がんばって前回りをしても、体を元の位置に戻すことができず、足を投げ出すような格好で着地してしまう。一度途中で手を滑らせて、顔から地面に落ちたこともある。低い鉄棒だったので、ちょっと擦りむいたぐらいで済んだけれど、それからはいっそう鉄棒が怖くなった。

鉄棒の前に立つと途方にくれた。他の子たちの視線を感じると惨めになり、いたたまれなくなった。

体育の授業がある日は学校に行くこと自体憂鬱で、ときどき仮病を使って休んだりもした。

 

そんな私を救ってくれるのが雨だった。私は雨の日が好きだった。

雨の日は当然外での授業はなくなって(水泳はやることもあったが)、体育館を使うことになるのだが、そういう時はドッヂボールなどのちょっと軽めの内容になる。何かの理由で体育館が使えない時には、教室で保健の授業になったり、まったく関係のない自習になったりした。体育が得意な子はつまらなそうな顔をしていたが、私は上機嫌だった。

しかし、何事もうまいことばかりではない。

雨の日の体育館での授業にも天敵といえるものがあった。

跳び箱とマット運動だ。

くどくどと描写するまでもなく、とにかく私は無様だった。

いったい、箱をピョンピョン跳んだり、マットの上をゴロゴロと転がったり、鉄の棒をグルグルと回ったりすることになんの意味があるのか? 大人になった時に、これがいったいなんの役に立つというのか?

私は心の中で激しく毒づいた。(基礎体力を養う意味があるのだが)

 

この状況は、もちろん小学生の時だけでなく、中学、高校と変わらなかった。だから大学に入って体育の授業がなくなった時は心底嬉しかったし、ほっとした。

そして体育の授業から解放されたとたんに雨の日が嫌いになった。

現金なものだ。

 

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【おまけ】「カウンタック」を日本語にすると……

 

カウンタック」という名前は、イタリア北西部、ピエモンテ地方の方言で「驚いた、びっくりした」という意味の「クンタッチ」という言葉に由来する。(特に男性が美しい女性を見たときの感嘆詞であるらしい)

 

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また、ランボルギーニの紋章は「牛(闘牛)」で、これは創始者であるフェルチオ・ランボルギーニが牡牛座の生まれだったからだという。

 

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ということは、「ランボルギーニ  カウンタック」を日本語に意訳すると……

 

 

 

びっくりしたなぁ、モー

 

 

となって、三波伸介が登場するのだが……

 

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若い人にはわからないか……

 

失礼しました!

 

N君とカウンタック

 

N君は小学校の時の同級生だ。

特別に親しかったわけではないが、家の方向が同じだったのでときどき一緒に帰るぐらいの仲だった。

ある日、何人かの友だちとおしゃべりをしていた時、何がどうしてそういう話になったのか、N君が突然、

「うちのお父さん、カウンタック持ってるんだ」

と言った。

私たちは「きょとん」とするしかなかった。

 

説明しよう。

カウンタックランボルギーニ  カウンタック)は70年代を代表する「スーパーカー」の一つだ。

 

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https://matome.response.jp/articles/1901

 

スーパーカーというのは、超カッコよく、超速く、超高価な、とにかくスーパーなスポーツカーの総称である。(説明になってないが)

私が小学生の低学年の頃、つまり70年代の中頃に「スーパーカー・ブーム」というものが起きて、さまざまなメディア(一般の雑誌、漫画雑誌、テレビ番組など)でいろんなスーパーカーが紹介された。

池沢さとしの漫画『サーキットの狼』の影響だと言われており、他にも理由はあったのだろうが、とにかく猫も杓子もスーパーカーといった感じだった。

しかし、当然ながら、ブームになったからといって誰もがホイホイと買えるような代物ではない。都会でさえ実際に目撃することは稀なのだ。ましてや田舎をや。むしろUFOの方が目撃の確率は高いかもしれない。

そんなスーパーカーに飢えた子供たちのために、「スーパーカーカード」や「スーパーカー消しゴム」といった商品が用意されていた。大人は親切だ。

私も少ない小遣いで「ガシャポン」を回し(消しゴムは「ガシャポン」商品だった)、友だちと見せ合ったり、重品を交換したり、ノック式ボールペンを使ってレースをしたり、先生に怒られたりした。

 

実物は手に入らなくても、知識や情報は得ることができる。

今のようにインターネットがない時代なので、知識を得るためには当然本を読むことになる。当時は子どもを対象にした◯◯入門とか△△図鑑のような本がたくさん出版されていた。例えばこんな本だ。

三本和彦『いちばんくわしいスーパーカー』(立風書房、1977)

 

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これは私が子どもの頃に買った本、ではなく、最近ヤフオクで衝動買いした本だが、これと似たような本を当時よく読んでいた。

そして本から得た知識を得意になって友だちに披露していた。嫌なガキだ。

(余談だが、 この時代の子どもの本には、モノによってはそれなりの古書価がついていたりする。実家を探してみたら、意外な掘り出し物があるかもしれない)

 

さて、冒頭の話のつづき。

しばらく「きょとん」状態だった私たちだが、それから覚めると口々にN君を非難した。

「嘘つけ!」「そんなわけないじゃん」「ラジコンだろ?」(当時はラジコンも流行っていた)などなど。

確かにN君のお父さんは普通のサラリーマンや農家ではなく、何か小さな事業(商売?)をやっていたはずだが、それでカウンタックが買えるかどうかは(失礼ながら)子どもにもわかる。

しかしN君は退かなかった。

「嘘じゃないよ!  じゃあ家に来てよ、見せてあげるから!」

もちろん誰も行かなかった。それは、バカバカしいからというよりも、それ以上N君を追いつめるべきではないという、子どもなりの判断だったのではないかと思う。

話はそれっきりで、2、3日もすればみんな(N君自身も含めて)そんなことは忘れてしまったようだが、それにしても、なぜN君は急にあんなことを言ったのだろう。嘘をついてまで人の気をひく子ではなかったと思うのだが。

 

N君とは中学まで一緒だったが、高校は別で、その後の消息は知らない。

いまどこでどうしているのやら……。